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大日本帝国期の日本の法律 ウィキペディアから
治安警察法(ちあんけいさつほう、明治33年3月10日法律第36号)は、日清戦争後に高まりを見せ始め、先鋭化しつつあった労働運動を取り締まる為に、1900年(明治33年)3月10日、第9代内閣総理大臣山縣有朋率いる第2次山縣内閣下で制定された法律である。
それまで、自由民権運動を念頭に置いて、政治活動の規制を主な目的としていた保安条例(明治20年勅令第67号)と集会及政社法(明治26年4月14日法律第14号)に、労働運動の規制という新たな機能を付加した上で、継承発展させる形で制定された。大東亜戦争(太平洋戦争・第二次世界大戦)終結直後の1945年(昭和20年)11月21日、第44代内閣総理大臣幣原喜重郎率いる幣原内閣の手により廃止された[1]。
全33条より構成(うち2条削除)。治安維持法とともに、戦前の有名な治安立法として知られる。臣民の言論の自由、出版の自由、表現の自由、集会の自由、結社の自由は法律の範囲内で存在するとする、大日本帝国憲法第29条に対して加えられた制限である。
第1条ないし第19条が集会、結社、多衆運動の取締方法に関する規定で、すなわち
が規定された。第20条以下は罰則である。
第17条はストライキを制限するものであったが、1926年、「大正15年法律第58号」により削除され、代わって「暴力行為等処罰ニ関スル法律」が制定された。
第17条左ノ各号ノ目的ヲ以テ他人ニ対シテ暴行、脅迫シ若ハ公然誹毀シ又ハ第2号ノ目的ヲ以テ他人ヲ誘惑若ハ煽動スルコトヲ得ス
1 労務ノ条件又ハ報酬ニ関シ協同ノ行動ヲ為スヘキ団結ニ加入セシメ又ハ其ノ加入ヲ妨クルコト
2 同盟解雇若ハ同盟罷業ヲ遂行スルカ為使用者ヲシテ労務者ヲ解雇セシメ若ハ労務ニ従事スルノ申込ヲ拒絶セシメ又ハ労務者ヲシテ労務ヲ停廃セシメ若ハ労務者トシテ雇傭スルノ申込ヲ拒絶セシムルコト
3 労務ノ条件又ハ報酬ニ関シ相手方ノ承諾ヲ強ユルコト耕作ノ目的ニ出ツル土地賃貸借ノ条件ニ関シ承諾ヲ強ユルカ為相手方ニ対シ暴行、脅迫シ若ハ公然誹毀スルコトヲ得ス
※「誹毀」(ひき)とは「誹謗」(ひぼう)し「毀損」(きそん)すること。他の悪口を言い名誉を毀損すること。
また第5条では、軍人及警察官、神職僧侶や教員などと共に、女性が政党などの政治的な結社へ加入すること、また政治演説会へ参加し、あるいは主催することを禁じた。
女性らの請願運動により、1922年(大正11年)3月には女性の集会の自由(政治演説会に参加ないし主催する自由)を禁止した第5条2項の改正に至った(治安警察法第五条改正運動)。しかし女性の結社権を禁止した第5条1項は残されたため、婦人団体を中心に、治安警察法第5条全廃を求める運動がその後も続いた。
本法律の廃止後、戦後改革の一環として昭和憲法が制定されると、それぞれの分野ごとに後継となる法律が定められた。
すなわち、政治団体の設立手続きについては政治資金規正法、街頭での政治集会は道路交通法、労働者の団結権については労働組合法、団体交渉権と争議権については労働関係調整法が後継となった。集会における騒擾行為については暴力行為等処罰法および刑法の騒擾罪の他、新たに設けられた破壊活動防止法によって取り締まられることになった。
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