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田中義一内閣

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田中義一内閣
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田中義一内閣(たなかぎいちないかく)は、退役陸軍大将貴族院議員立憲政友会総裁田中義一が第26代内閣総理大臣に任命され、1927年昭和2年)4月20日から1929年(昭和4年)7月2日まで続いた日本の内閣

概要 田中義一内閣, 天皇 ...

閣僚の顔ぶれと人事

要約
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国務大臣

1927年(昭和2年)4月20日任命[1]。在職日数805日。

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内閣書記官長・法制局長官

1927年(昭和2年)4月20日任命[1]

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政務次官

1927年(昭和2年)4月22日任命[7]

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参与官

1927年(昭和2年)4月22日任命[7]

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勢力早見表

※ 内閣発足当初(前内閣の事務引継は除く)。

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内閣の動き

要約
視点
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田中義一内閣の官僚たち。前列右から1人目に田中首相、2人目に倉富勇三郎枢密院議長、3人目に高橋是清蔵相

前政権の第1次若槻内閣は、昭和金融恐慌への対応で行き詰まり、政権運営のめどがつかなくなったため退陣した。後継の政権として、首相奏請を担った西園寺公望元老は、与党憲政会の政権運営の落ち度が総辞職の原因であったことから、後任に野党第一党・立憲政友会の田中義一総裁を推挙(憲政の常道)、1927年4月28日、田中内閣が成立する。

閣員としては、若槻政権の倒閣に積極的であったとされる枢密院平沼騏一郎副議長の意を受けて、内務大臣に鈴木喜三郎、司法大臣に原嘉道を起用。外務大臣には当初井上準之助本多熊太郎が予定されていたが、合意には至らず最終的に田中自らが兼務して政務次官森恪を配置した。大蔵大臣には金融恐慌解決までという条件で高橋是清元首相(前政友会総裁・元蔵相・日銀総裁)が入った(のち、高橋側近の三土忠造に交代)。さらに事務官僚の面においては内務省警保局長山岡萬之助外務次官に最初は前内閣の出淵勝次の留任としたが後に吉田茂に交替させた。これが後に大きな影響を与えることとなった。

当時、衆議院が政友会、憲政会、政友本党の三党鼎立状態であったため、田中内閣は少数与党状態であった(その後、6月に憲政会と政友本党が合流して立憲民政党が発足)。翌1928年1月、田中内閣は安定多数の確保を目指して衆議院解散に踏み切る。初の普通選挙となった第16回衆議院議員総選挙(1928年2月20日投開票)では、鈴木内相による選挙干渉(後述)などが反発を受けて議席は伸び悩み、民政党を1議席差で上回るにとどまった。議席の半数には及ばない状態であったため、選挙後、政友本党から民政党に合流したばかりの床次竹二郎を離党させて引き抜くなどして、安定多数の確保を行った[13]

主な政策
  • 昭和金融恐慌 - 政権発足時、台湾銀行の不良債権問題が喫緊の課題であったが、高橋蔵相は、恐慌解決のために日本銀行から市中銀行への緊急融資を行い、その際、需要に間に合わせるために急遽片面だけが印刷された新紙幣を発行した。
  • 経済政策 - に恐慌対策を兼ねて「産業立国」路線を採った。これは革新倶楽部犬養毅総裁)が政友会と合同する際の条件でもあったが、犬養は軍縮を行って浮いた経費を国内投資に充てるべきであると唱えたのに対して、田中は積極財政と中国大陸における勢力拡大に伴う市場拡大と大陸への移民で実現しようとしたのである。さらに国内投資においては鉄道分野などへの投資が積極的に行われて、後に小川鉄相(所管大臣)を被告とする5私鉄疑獄が発生することとなった。
  • 反共政策 - 治安維持法を改正し、最高刑を死刑とした。また、3・15事件では日本共産党を壊滅に追い込んだ。
  • 選挙管理 - 総選挙に先立って、府県知事の大規模な人事異動を行って政友会に批判的な知事を休職・免職にした(これは立憲民政党政権を握った際にも報復として行われ、「党弊」と呼ばれて地方政治の停滞を招き、後に革新官僚の台頭と彼らへの国民の支持を集める遠因となった)。さらに鈴木内相は第16回衆議院議員総選挙では大規模な選挙干渉を行った。これには国民・野党のみならず、貴族院や政友会内の古参幹部(大正デモクラシーの推進勢力)の反感を買い、鈴木は失脚する。鈴木を大臣から外すための内閣改造の過程で水野文相優諚問題が発生し、更に田中は非難を浴びることとなった[14]
  • 大陸政策 - 当時の中国大陸は、辛亥革命(1912年)によって旧清朝が崩壊して以降、各地に軍閥が群雄割拠し、動乱の最中にあった。1927年4月、その中の大勢力であった蒋介石(広州)率いる国民革命軍は、大陸制覇を目指して北伐を敢行。権力中枢に入り込んでいた中国共産党分子を粛清した後、田中内閣の成立と前後して、"南京国民政府"の樹立を宣言していた。田中内閣は、外地として領有していた山東省の居留民の保護、および軍閥の中でも近しい関係にあった張作霖(奉天)への援助を目的に、山東出兵、および東方会議が行われる。1928年に入ると、中原における張軍閥の勢力は弱体化し、日本側は本拠地である奉天への退却を説得、これに応じた張は、6月3日、北京を離れる[15]
  • 張作霖爆殺事件(満洲某重大事件) - 1928年6月4日未明、奉天を引き揚げる最中の張作霖の乗車した列車が爆破テロに遭遇、張は直撃を受けて数時間後に落命した。事件は直後から、張排斥を図った関東軍による自作自演の疑いがうわさされ、田中首相の命により、峯幸松憲兵司令官が現地に派遣され、事情聴取が行われた。10月までにわたって調査の報告では、河本大作関東軍高級参謀(陸軍大佐)を首謀とする関東軍の犯行である、と結論付けられた。その後、真相を公表して関係者を処罰すべきか否かで意見が割れ、田中首相は公表すべきと主張したが、白川陸相、小川鉄相らは強硬に反対した、田中は、西園寺元老の同意を得て、天皇にも"厳然たる処分"を行うことを確約する。しかし、政府内での対立は非公表派が優位となり、1929年6月、関東軍の関与を認めず、鉄路守備の不備に関する行政処分に留める方針となった。この最終方針が天皇の勘気に触れたことにより、田中首相は恐懼に堪えず、内閣総辞職を決意するに至った[16]

表向きは張作霖爆殺事件の処理をめぐって天皇が怒った形だが、実際にはもともと天皇は田中を好んでおらず、とくに不戦条約締結にあたって条文の「人民の名において」という字句を直さなかったことで天皇や宮中からの怒りを買ったとされ、そのような中、張作霖爆殺事件が起こったため、田中と犬猿の仲の上原勇作がこの事件処理をことは重大だとして元老らにも働きかけ、倒閣陰謀の結果としてこの天皇の発言が行われたものと、事件当時はみられている[17][18]。現在、これが全く張作霖爆殺事件処理をめぐってのこととして一般に語られるのは、太平洋戦争敗戦後に天皇の戦争責任を糊塗するため、「この田中の辞職で反省し、以降は立憲君主制の天皇として内閣の上奏案を否定しないようにすることにした」という話にすりかえて説明、これが強調されたからだとする指摘もある[19]

天皇の不信任により総辞職に追い込まれた田中内閣にかわり、野党第一党の立憲民政党から濱口雄幸総裁が首相に選任され、濱口内閣が成立。政友会は、直後に急死した田中にかわり、党内各派の後継争いの妥協の産物として、長老の犬養毅衆議院議員を総裁に担ぎ、政権奪還を展望することとなる。

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脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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