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キラー・カール・コックス(Killer Karl Kox、本名:Herbert Alan Gerwig[1]、1931年4月26日 - 2011年11月10日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。メリーランド州ボルチモア出身のドイツ系アメリカ人。
ヒールのラフファイターとして活躍し、日本では「殺人鬼」の異名で呼ばれた[2]。代表的なプロレス技のひとつであるブレーンバスターの開発者としても知られている[3]。
学生時代はレスリングとボクシングで活躍する一方、不良少年グループのボスとしても名を馳せていたという[2]。海兵隊に入隊し朝鮮戦争に従軍後、プロレスラーの "ジェントルマン" フレッド・ボザックにスカウトされ1954年に23歳でプロレス入り[4](デビュー年は諸説あり、1956年ともされている[1][5])。
デビュー後6年間はハーブ・ガーウィッグ(Herb Gerwig)の名義でクリーブランド、バッファロー、ピッツバーグなどアメリカ北東部にて活動[4]。1961年、ネブラスカ州オマハのプロモーターだったジョー・デュセックの発案によりキラー・カール・コックス(Killer Carl Cox)と改名[4]。その後テキサス州アマリロにて、イニシャルがクー・クラックス・クランの略称 "KKK" と同じになる "Killer Karl Kox" にスペリングを改める[4]。
以降、白人至上主義者をギミックとしたヒールとして活動[4]。テキサスでは1964年にブル・カリーとブラスナックル王座を争い[6]、1965年6月29日にはフリッツ・フォン・エリックと組んでエディ・グラハム&サム・スティムボートからテキサス版のNWA世界タッグ王座を奪取した[7]。1966年はハワイにてインディアン・ギミックのビリー・ホワイト・ウルフとの連戦も行われている[5]。ロサンゼルスのWWAでは1967年5月19日にマイク・デビアスと組み、プエルトリコ系のペドロ・モラレスとメキシコ系のリッキー・ロメロのチームからWWA世界タッグ王座を奪取した[8]。
1960年代後半はオーストラリア(ジム・バーネット主宰のワールド・チャンピオンシップ・レスリング)に定着して、フラッグシップ・タイトルのIWA世界ヘビー級王座をマリオ・ミラノやカウボーイ・ボブ・エリスを破り通算3回獲得[9]。1968年5月にはスカル・マーフィーとの凶悪コンビでミラノ&トニー・パリシのイタリアン・コンビを下し、同世界タッグ王座にも戴冠した[10]。
1970年代に入ると再びアメリカを主戦場に、テキサスのダラスやアマリロを転戦。ダラス地区ではボリス・マレンコやリッパー・シクナ、ロード・チャールズ・モンタギューらと共に、ジョニー・バレンタイン率いるヒール軍団の一員となって活躍。かつてのパートナーだったフォン・エリックをはじめ、ミル・マスカラスやワフー・マクダニエルと抗争した[11]。アマリロ地区では1973年8月29日、日本から流出してきたインターナショナル・タッグ王座をサイクロン・ネグロと組んでザ・ファンクスから奪取している[12]。同年12月13日には同じイニシャルのキラー・カール・クラップを破り、ブラスナックル王座にも戴冠した[13]。オクラホマやルイジアナをサーキット・エリアとするミッドサウスのトライステート地区では、1975年10月28日にディック・マードックから北米ヘビー級王座を獲得している[14]。
1976年よりフロリダを主戦場として、黒人ベビーフェイスのロッキー・ジョンソンを相手にブラスナックル王座を巡る抗争を展開[15]。タッグではボビー・ダンカンやディック・スレーターらヒール勢をパートナーに、ジャック・ブリスコ&ジェリー・ブリスコのブリスコ・ブラザーズとUSタッグ王座を争っている[16]。同地区のヒーローだったダスティ・ローデスとも流血戦を繰り広げ、1978年2月7日にはローデスを下してフロリダ・ヘビー級王座を獲得した[17]。
以降もディープサウスを転戦し、1979年はジョージアでボビー・ヒーナンをマネージャーにブラックジャック・ランザやマスクド・スーパースターと共闘、アンドレ・ザ・ジャイアントやスタン・ハンセンとも対戦した[18]。1980年にはアラバマでボブ・アームストロングやオレイ・アンダーソン、ジョー・ルダックらとサウスイースタン・ヘビー級王座を争った[19]。
その後、セントラル・ステーツ地区を経て、古巣のミッドサウス(ビル・ワット主宰のMSWA)にベビーフェイスとして登場。1981年1月29日、ジャンクヤード・ドッグとの異色コンビでアーニー・ラッド&レロイ・ブラウンからミッドサウス・タッグ王座を奪取している[20]。これが最後のタイトル戴冠となり、持病の心臓疾患からくる体調不良と腰痛の悪化のため1982年に引退[2]。リタイア後はダラスにて刑務所の看守に転じていた[4]。
2011年11月10日、心臓発作のため死去[4]。80歳没。
日本には1966年5月、日本プロレスに初登場。来日第一戦で吉村道明を相手に必殺技のブレーンバスターを日本初公開、試合巧者として知られた吉村を失神KOさせるという強烈なデビューを飾った[3]。吉村は直後のインタビューで「バディ・オースチンのパイルドライバー以上の衝撃」と語っていたという[3]。5月23日には宮城県スポーツセンターにてジョー・カロロをパートナーに、空位となっていたアジア・タッグ王座の決定戦に登場、ジャイアント馬場&吉村を破って新王者となった(初防衛戦で吉村&ヒロ・マツダに奪取されるも、6月27日にエディ・グラハムと組んで再び戴冠。最終的には7月1日の広島大会で馬場&吉村に奪還されたものの、日本プロレスの看板タッグ王座を初来日で2度奪取するという活躍を見せた)[2][21]。
日本プロレスには通算5回来日し、馬場のインターナショナル・ヘビー級王座に再三挑戦[22]。1968年にはマッドドッグ・バションと凶悪コンビを結成し、10月24日に広島県立体育館、10月29日に愛知県体育館にて、馬場&アントニオ猪木のBI砲が保持していたインターナショナル・タッグ王座に連続挑戦した[22]。1971年にはワールドリーグ戦に出場[23]、黒人のアブドーラ・ザ・ブッチャーとの確執も話題を呼んだ[24]。1972年の来日時には、12月8日に静岡にてジン・キニスキーと組み、坂口征二&吉村が保持していたアジア・タッグ王座に挑戦している[25]。
日本プロレス崩壊後は馬場の全日本プロレスに登場、1973年から1981年まで来日を重ね[26]、馬場とPWFヘビー級王座を巡って激闘を繰り広げた。1975年7月の来日時はザ・デストロイヤーの覆面十番勝負の対戦相手として、覆面レスラーのザ・スピリット(The Spirit)に変身、大阪府立体育館と日大講堂にて2連戦を行った。素顔に戻っての1976年12月には、かつてブレーンバスターを伝授したディック・マードックとのブレーンバスター合戦も実現。最後の来日は1981年2月で、このときも馬場のPWF王座に挑戦している[26]。
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