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ブラジルのサッカー選手 ウィキペディアから
バレー (Baré) こと、ジャデル・ヴォルネイ・スピンドラー(Jader Volnei Spindler, 1982年1月18日 - )は、ブラジル・リオグランデ・ド・スル州出身の元サッカー選手。ポジションはフォワード。
17歳のときにリオ・グランデ・ド・スル州のグアラニFCのテストに合格し、本格的にサッカーを始める[1]。12歳から17歳までは学校に通いつつ母が働いていたスーパーマーケットに勤務しており、そのスーパーのチームで週に1度サッカーをプレーしていた[1]。1999年10月にウルグアイのデフェンソールに移籍するが、同クラブでは3ヶ月間練習に参加しただけで試合出場はなかった[2]。2000年はレンタル移籍でグレミオに在籍[2]。
2001年4月、デフェンソールから期限付き移籍でJ2・大宮アルディージャに加入[3]。これがプロとしてのキャリアのスタートだった。当時はC契約で[4]「第4の外国人」という扱いだったが[2]、他の外国人選手の相次ぐ怪我などでチャンスをつかむ。デビューとなった5月23日の水戸ホーリーホック戦から4試合で5得点を記録[5]。ホルヘ・デリー・バルデスに次ぎチーム2番目となる13ゴールをあげた[6]。
翌年、怪我で戦列を離れていたチーム内外国人選手が復帰したために外国人枠からあぶれた関係で、大宮を退団してイタリアのACペルージャへの入団を目指し渡欧し、デンマーク、ウルグアイ、ブラジルのクラブでプレーした後、2003年1月、大宮へ復帰した(デフェンソールからの期限付き移籍)[7]。2004年の大宮のJ1昇格にも貢献したが、シーズン終了後に放出される。このときJ1やヨーロッパの幾つかのクラブからオファーを受けたが、J2・ヴァンフォーレ甲府入団をバレー自身が選択した。
2005年シーズンは甲府の攻撃の中心としてJ1昇格に貢献した。J2リーグ戦では得点ランキング2位の21ゴールを記録[8]。柏レイソルと対戦したJ1・J2入れ替え戦では、12月7日の第1戦(小瀬)で決勝ゴール、12月10日の第2戦(日立柏)ではJリーグの1試合個人最多得点記録(当時)となる6得点(ダブルハットトリック)を叩き出す大活躍で甲府のJ1昇格に大きく貢献した。J1へ昇格した2006年も引き続き甲府の攻撃ユニットを牽引。勝利を決定付けるゴールを次々に挙げ、昇格初年度の甲府J1残留を置き土産に同シーズンをもって甲府を退団し、ガンバ大阪に完全移籍し、3年契約を結んだ[9]。
2007年開幕戦、古巣の大宮相手に途中出場から決勝ゴールを決め、感動の涙を流した。このシーズン、J1リーグ得点ランク2位となる20ゴールを挙げ、Jリーグベストイレブンに選出された[10]。2008年2月、パンパシフィックチャンピオンシップ2008決勝戦のヒューストン・ダイナモ戦にて4ゴールをあげてG大阪の優勝に貢献した[11]。
2008年8月、アラブ首長国連邦のアル・アハリに完全移籍した。ベナンシオ・アイレスの地元紙によれば移籍金は600万ドル(当時のレートで約6億5千万円)で、そのうち85%がガンバ大阪に、身内がパス(選手保有権)の一部を所有することから、残りの15%が彼自身の手に渡ったという[9]。2008-09シーズン、アル・アハリはUAEリーグに優勝し、バレーはチームトップの11ゴールを記録した[12]。
2010年に同じUAEのアル・ジャジーラに移籍し、2010-11シーズンのUAEリーグに優勝。2011年4月に行われたUAEプレジデンツカップ決勝のアル・ワフダ戦では、決勝点となった先制点を含む2ゴールをあげて4-0での勝利に貢献した[13]。
2013年シーズンから、清水エスパルスに移籍することが発表された[14]。7月25日、中国スーパーリーグの天津泰達足球倶楽部へ完全移籍[15]。
2015年5月3日にヴァンフォーレ甲府へ復帰[16]。契約満了をもって同シーズン限りで退団[17]。2016年2月、ブラジルのGEグロリアと契約[18]、同年に引退。
登録名となっている「バレー」は本人によれば、ブラジルで販売されているバレーコーラ (Baré-Cola) というとても安いジュースの名前で、小さい頃によく飲んでいたせいか、あだ名として呼ばれだしたものが定着したとのこと。家族や親しい者は本名の「ジャデル」で呼ぶという[19]。
Jリーグでプレーしていた頃には公文式の教室に通い、日本語の勉強をしていた。しかし、記者会見では語弊などを避けるためポルトガル語を使用している。
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
ブラジル | リーグ戦 | ブラジル杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
2000 | グレミオ | セリエA | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
2001 | 大宮 | 30 | J2 | 30 | 13 | - | 1 | 0 | 31 | 13 | |
デンマーク | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
2002 | ヴェイレ | スーペル | 6 | 3 | |||||||
ブラジル | リーグ戦 | ブラジル杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
2002 | ボタフォゴ-SP | ||||||||||
ウルグアイ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
2003 | ワンダラーズ | 1部 | |||||||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
2003 | 大宮 | 11 | J2 | 43 | 22 | - | 3 | 4 | 46 | 26 | |
2004 | 41 | 15 | - | 2 | 2 | 43 | 17 | ||||
2005 | 甲府 | 16 | 38 | 21 | - | 2 | 1 | 40 | 22 | ||
2006 | J1 | 30 | 14 | 5 | 1 | 1 | 0 | 36 | 15 | ||
2007 | G大阪 | 18 | 31 | 20 | 7 | 5 | 4 | 1 | 42 | 26 | |
2008 | 18 | 10 | 1 | 0 | - | 19 | 10 | ||||
UAE | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
2008-09 | アル・アハリ | 9 | 1部 | 10 | 11 | ||||||
2009-10 | 19 | 11 | |||||||||
2010-11 | アル・ジャジーラ | 20 | 12 | ||||||||
2011-12 | 14 | 11 | |||||||||
カタール | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
2012-13 | アル・アラビ | 20 | 1部 | 7 | 2 | ||||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
2013 | 清水 | 9 | J1 | 16 | 4 | 6 | 2 | - | 22 | 6 | |
中国 | リーグ戦 | リーグ杯 | FA杯 | 期間通算 | |||||||
2013 | 天津泰達 | 超級 | 13 | 3 | |||||||
2014 | 16 | 4 | |||||||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
2015 | 甲府 | 10 | J1 | 22 | 8 | 0 | 0 | 1 | 0 | 23 | 8 |
通算 | ブラジル | セリエA | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
日本 | J1 | 117 | 56 | 19 | 8 | 6 | 1 | 142 | 65 | ||
日本 | J2 | 152 | 71 | - | 8 | 7 | 160 | 80 | |||
デンマーク | スーペル | 6 | 3 | ||||||||
ウルグアイ | 1部 | ||||||||||
UAE | 1部 | 49 | 34 | ||||||||
カタール | 1部 | 7 | 2 | ||||||||
中国 | 超級 | 28 | 7 | - | |||||||
総通算 |
その他の公式戦
その他の国際公式戦
出場歴
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