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セル画(セルが)は、セルアニメ製作過程において用いられる絵。
セル画は、「セル」とよばれる透明なシート状の画材に、「アニメカラー」と呼ばれる絵具を使用して描かれる。「セル」の名称の由来は、かつて透明シートの素材にセルロイドが使用されていたことに由来するが、セルロイドは自然発火などの危険性があることから、1950年代よりアセテート繊維製の物に移行した。
セルアニメ制作において、セル画は通常は単体で使用されるものではなく、背景を描いた紙(背景、BG)の上に複数枚を重ね、動きのある部分のみを差し替えて、16ミリや35ミリフィルムで撮影するなどの方法で利用される。一方、グッズのパッケージやアニメ雑誌の表紙など、セル画単体で使用されるために制作された「描き起こしセル画」なども存在する。
1990年代後半より、アニメの製作現場がセルアニメからデジタルアニメに移行したことにより、2000年代には製作されなくなった。ただし、「RETAS STUDIO」などのデジタルアニメ製作ソフトにおいても、旧来の「セル」に相当するデジタルオブジェクトの名称として、そのまま「セル」が使用されている。
セル画は本来、あくまでセルアニメ制作の一過程における中間生成物である。「撮影まで持てばよい」という代物であり、長期の保存が考慮されていない。後に美術品としての価値が見いだされ、売買・展示・保存されるようにもなったが、紫外線や加水分解により、容易に劣化する。2000年代以降は美術品としてのセル画の人気の高まりにより、耐光インキを使ったデジタルプリントにより長期の保存を考慮した、売買・展示用のセル画も製作されている。
アニメのオープニングなど、特定のシーンで使われたセル画の人気が特に高い。「原画」または「動画」(原動画)と呼ばれる絵の描かれた紙と、「トレスマシン」または「ゼロックス」と呼ばれるコピー機さえあれば容易に複製できるため、本放送用で使われたセル画とは別に、販売・頒布用に安価に量産されたセル画や、また量産品であっても美術品として高価に販売されるために手間をかけて作成されたセル画も存在する。複製が容易であることと、市場価値の高さから、非著作権者による非正規の複製品も市場に出回っている。
セル画は、主婦の内職を中心とするアニメーターの人海戦術によって製作されていた。複数人のアニメーターで描写方法を統一させるため、輪郭や境界線をはっきり線で描き、色や影のグラデーションを単純化させ段階的に表現する手法が開発された。この手法はアニメ絵とも呼ばれている。
2000年代まで、「セル」および「アニメカラー」は画材として市販されており、アマチュアのクリエーターによる「同人セル画」の製作も行われた。アニメの専門学校でも製作技法が教えられていた。
以下、一般的な日本のセルアニメにおけるセル画の製作工程について述べる。(「描き起こしセル画」や「同人セル画」など、特殊なセル画に関しては後述する)
まず、動画を用意する。「動画」とは、動画用紙に書かれた一連の画像の束である。「動画」の工程から上がってくる。
プロダクションの方で色彩設定を参考に色指定を行う。色彩設定や注意事項は、間違いのないようにコピーして事前にみんなに配る。色指定は、動画用紙にアニメカラーの色指定番号などの指示を書き込み、トレスマシンにかけたセルと一緒に「仕上」の工程に送られる。「仕上」に送る前に、動画検査による「動検チェック」が入り、送る動画に不備がないかチェックする。
「トレス」と「彩色」の工程を合わせて「動画仕上げ」(仕上)と呼ばれ、昭和時代においては主婦の内職の定番の一つとして、プロダクションから個人の下請けに卸されていた。例えば当時の『週刊現代』(1971年3月25日号)には、(1971年当時の金で)「月収10万円は軽いヒマ人向け新内職」と、嘘のような話が載っている。
1960年代よりトレスの工程がトレスマシンに置き換わったことにより、トレスの内職はなくなった。また、1990年代よりセル画の廃止と同時に彩色の工程がパソコンに置き換わり、彩色ソフトなどの専門知識が必要になったことにより、こちらも内職はなくなった。
セルを下請けの仕上げさんとやり取りする方法は、郵送なので、それなりの時間がかかる。1980年代に入るとバイク便のサービスが都内で開始され、即日のやり取りが可能となったが、それでも時間がかかる。外国に送る場合はさらに時間がかかる。アニメ制作のデジタル化は、電送でセルを仕上げさんと一瞬でやり取りできるようになるというメリットもあった。
紙に描かれた動画をセルに転写する作業。動画の上に生セルをかぶせてGペンでトレースするか(ハンドトレス)、動画と生セルとカーボン紙を挟んでトレスマシンにかける(マシントレス)。
当初は手作業のハンドトレースが行われたが、1960年代にトレスマシンが発明され、アニメ業界ではトレスマシンによるマシントレスに全面的に移行した。そのため、それまでのアニメ業界ではハンドトレスを担当するトレスさんを大量に雇用していたが、1960年代末頃に大量に解雇された。
トレスマシンによるトレスは人件費削減の効果があったが、他に原画のタッチが失われないという利点もあった。
彩色(さいしき[1])には、アニメカラーと呼ばれる専用塗料が使用される。既製品の色数は限られていたが特注のオーダーも可能であった。
製作の工程上、トレスされたセルの裏面に彩色するため、輪郭や境界線が線として現れる。また多数のスタッフで行う為、色や陰影のグラデーションを統一、単純化させ段階的に表現する手法で行われていた。この着色表現方法は「アニメ塗り」とも言われている。
作業は下請け発注されており、アニメがまだ「マンガ映画」と呼ばれていた時代から、主婦業などの合間にできる内職として婦人雑誌や求人雑誌などに掲載されていた。給料は歩合制で、1枚当たりせいぜい10円から15円と極めて安かったうえに、道具は自腹(1瓶300円くらいするアニメカラーは最低でも数十色は必要で、普通は100色を超える)、会社でリテークを食らった分は当然給料はもらえないので、大した利益にならなかったが、自分が担当したパートがテレビで放送され、エンドロールに名前が載るのは嬉しかったらしい。
彩色さんになるための通信教育も存在し、婦人雑誌などに広告が掲載されていた。例えばアニメ制作会社として彩色の通信教育を行っていた民話社の1973年の広告では、ホームスタッフとして採用されれば下手でも3か月で元が取れ、経験を積めば月3万円の収入が得られ、しかも年2回のボーナスまで貰えるとある[2](なお現実はスタッフに登用されるのはごくわずかで、民話社は1974年に倒産し、1万人近くの被害者を出し、計画倒産の噂が流れた)。アニメ雑誌の登場後はアニメ雑誌にも通信教育の広告が記載されており、例えばスタジオロビンが運営する「東京彩画研究所」などが草創期より広告を出していた。
ただし、内職詐欺の定番でもあった。例えばアナログ末期の2000年頃には、有料の講習だけ受けさせて、出来上がったセルは不良品だと言って引き取ってもらえないという「インチキ内職」が存在し、労働局が注意を喚起している[3]。
森川ジョージの母親は家計を助けるために内職として始めたが、必要な道具は買い取りで塗料の補充も必要であるが賃金は1枚1桁円なため元は取れなかったという[4]。
仕上げたセルをプロダクションに送付後、プロダクションの方で仕上げ検査による「仕上げチェック」を行う。仕上げチェックでOKが出た場合は撮影に回されるが、リテーク(リテイク)となった場合はそのセル画を破棄し、仕上の工程をやり直す「再仕上」を行う。もしくは、もう時間がない場合は「カブセ」でごまかすか、リテークせずにそのまま使用する。アナログ時代は彩色さんとプロダクションとの間でセル画を物理的にやり取りするため、リテークの制作に相当の時間がかかることから、時間的に明らかに不可能な場合も多く、リテーク指示が出されることはそれほど多くない。基本的に作品のクオリティよりも放送のスケジュールが優先されるので、リテーク指示票を無視して撮影に回すこともままある。
アニメーションの技法としてセルを使った重ね合わせが用いられたのは、1914年1月、アメリカ、ジョン・ランドルフ・ブレイが世界初とされる。背景画をセルに描き、動くキャラクターを紙に描く技法を考案した。
同年12月、同じくアメリカのアール・ハードが、動くキャラクターをセルに描き、背景画などを紙に描く技法を考案し、その後この技法は普及した。
1927年に大藤信郎が影絵アニメ「鯨」の一部で使ったものが日本初のセルアニメとされている。
1930年代の日本ではアニメ制作スタジオの規模が極めて小さく、アメリカのディズニーのような大規模な制作スタジオがなかったため、切り絵アニメが一般的であり、高価なセルの導入は遅れた。切り絵より表現が優れていると分かっていても、非常に高価で使用できるものではなかった。使用される場合もアニメ全編ではなく、部分的な使用に留まっていた。
撮影が済んだセル画は、通常は廃棄されるが、アニメ草創期において、セルは非常に高価だったため、使用済みのセルは洗浄して再利用されていた。作業は主に新人の撮影マンなどが行っていた。しかし洗浄による無数の傷が付き、また薬品のためにシワが出来るため、再利用は3回くらいが限度だったという。例えば『くもとちゅうりっぷ』(1943年)は「セル洗い」を繰り返していたため[8]、雨が降ったような線が顕著に見られる。
アメリカでも初期は高価だったため、セルは洗浄して再利用していた。アニメ製作者のチャック・ジョーンズはアブ・アイワークスのスタジオで行っていたと証言。また日本ではテレビ時代に入っても、『鉄人28号』(1963年)の制作でセル洗いを行っていたと、TCJ動画センター(現・エイケン)の鷺巣政安は証言している。
その後、セルの価格が下がり、またテレビ受像機の性能が向上して、小さな傷でもごまかしが利かなくなったことから、手間のかかる「セル洗い」は行われなくなった。
撮影が済んだセル画は、制作会社で保管、焼却・廃棄処分される他、映画封切り日の初回放映に来場したファンへのプレゼントやファン対象イベントの記念品などに供されていたが、1970年代末から1980年代のアニメブーム以降、キャラクターが描かれたセル画(絵コンテ、原画、動画、台本などとともに)の価値がアニメファンに認識され、アニメショップ「アニメポリス・ペロ」(東映動画設立)などの販売店や即売会などで販売されるようになった。
当時はアニメショップで300円から数千円ぐらいの相場であり、ファン同士のトレードもよく行われていた。アニメ会社側もセル画を保有していると資産とみなされるようになり、税金を取られるため、積極的に流通させるようになった。
一方で、セル画人気がエスカレートし、制作会社に見学に訪れる者や侵入した者によるセル画の盗難事件、盗品がまんだらけなどの古書店やインターネットオークションで販売される事件、偽物の流通も発生した。撮影済みのセル画ならともかく、『うる星やつら』第二期OP『Dancing Star』は撮影前に盗難され、突貫で再製作して放映が2週間伸びた。その他、経営破綻したプロダクションが手掛けていた作品では、会社倒産時の混乱に乗じて何者かによりセル画が持ち出され散逸し所在不明となったとされるものもある。
2000年代前半にはインターネットの発達により海外でも需要が高まり、セル画の価格が高騰。ジブリのセル画が1枚150万円前後まで跳ね上がるという事態にまでなった[7]。
アニメ制作のデジタル移行後にも、視聴者プレゼントや販売などの目的でセル画が作成される場合があるが、プレミア的な高価格で販売される物を除いて、多くの物は印刷によるものである。デジタルのアニメの名シーンをセル画で欲しいという需要の為に、紙の動画用紙をスキャナではなくトレスマシンにかけて着彩した(実際のアニメで使用されない)「リレイズセル」というものも生み出された[9]。アニメのデジタル化に伴い、アニメのセル画は今後新たに製作されることが無いのと、どうしても経年劣化が避けられないので状態の良いセル画が減っていくことから、既存のセル画の価格は高止まりしやすい。
アニメ製作には「影絵アニメ」や「ゲキメーション」など様々な手法があるが、日本初の連続テレビアニメとされる『鉄腕アトム』(1963年)の成功により、日本においてアニメ産業が成立して以降、1990年代までの商業アニメ作品は基本的に「セルアニメ」で、セル画が用いられていた。
セル画を用いず、専用機材を導入のうえ全編デジタル彩色での製作が開始されたのは、1997年4月放送分以降の『ゲゲゲの鬼太郎(アニメ第4作)』や1997年4月放送開始の『超特急ヒカリアン』などからである。また、長編アニメーション映画では1997年公開の『もののけ姫』などが3DCG描画と融合する一部分のシーンにおいてデジタル彩色による製作を取り入れている。しかしながら当時は過渡期であり、同時期に開始された『ポケットモンスター』などは放送開始後の約5年間はセル画による製作となり、アニメ制作会社毎に機材導入の進捗状況次第で導入の有無が分かれる時期でもあった。『ロスト・ユニバース』など過渡期の一部作品ではCGとセル画のパートをそれぞれ用意して編集して一本の作品に仕上げる手法も取られた。デジタル機材の導入は大変だったが、デジタル彩色の導入により、色数の制約も事実上なくなるなどメリットは大きかった。
このうち、東映アニメーション作品については1998年に『金田一少年の事件簿』第69話を最後にセル画制作を打ち切り、ほぼデジタル彩色に移行。他社の長期放送継続中の作品に関しても、1999年に『ちびまる子ちゃん』[10]、2002年に『ドラえもん』[10]と、2000年代前半までにほぼデジタル彩色による製作へ変更された。
セル画を使う最後から2番目のアニメだった『アストロボーイ・鉄腕アトム』が2004年に放映終了したことにより、2004年には『サザエさん』以外の全てのアニメがデジタル彩色となった。
『サザエさん』を製作していたエイケンはセル画による温かみ、安心感を重視する観点から、あえてアナログな作り方にこだわる姿勢を見せていた。だが、2000年代後半にはデジタル放送の普及に伴いテレビ放送のハイビジョン化が進み、アナログで撮影したセルアニメはチリが見えたり、セルの厚みによる影で輪郭がぼやけたりするなど、精細なハイビジョン画質と相性が良くない面があった。エイケンの幹部もテレビのデジタル化の進展による画像品質の向上などで、他作品との比較で映像品質について汚いなどの不満が視聴者から寄せられるようになれば『サザエさん』のセル画製作を断念せざるをえない、との見解を示していた[10]。なお、同社の2001年の作品『ゴーゴー五つ子ら・ん・ど』(実制作:マジックバス)では全編デジタル彩色が導入され、『親子クラブ』についても2004年10月のフジテレビ放送分から同様の措置が取られている。
『サザエさん』も2005年より部分的にはデジタル化を行い、オープニングおよびエンディング部分と、CM、FNSの日スペシャル・特番などの特別版の本編については、セル画からデジタル彩色へ一部移行されていた。そして『サザエさん』2013年9月29日放送分をもって今までのセル画とフィルム撮影での本放送が完全終了することになり、2013年10月6日の放送分より本編を含めて完全デジタル彩色へ移行した(詳細はサザエさん (テレビアニメ)#特徴を参照)。これをもって、『鉄腕アトム』(1963年)以来50年間続いたセル画式のアニメはテレビから全て姿を消すこととなった[11]。
日本国内のアニメ業界では、1990年代後半以降、デジタル彩色の導入が業界規模で進行した。その一方でセル画製作の技術を持つ人材の減少・高齢化が急速に進行し、並行して業務用セルの流通が減少したことで業界各社はセル画による制作の継続に不安を持ち、さらにデジタル彩色の普及が加速度的に進む結果になった。その中で、2000年代初頭の一時期にかけては、セル画の技術しか持たずデジタル彩色の技術習得の機会にも恵まれない中堅・ベテラン世代のフリーランスの彩色スタッフが一気に淘汰される結果にもなり、無事に業界に残った者の中にも、デジタル彩色の導入がテレビアニメほど急激に進まなかったアダルトアニメの制作に携わることで、デジタル彩色の技術を習得するまでギリギリ食い繋ぐなどといった状況が見られた。
2007年時点で、セル画を描ける人材は、『サザエさん』に携わるエイケンなど3・4社の約120人で、高齢化も進んでいた[10]。『サザエさん』も日本国内のみではセル画製作が人手不足で間に合わないため、全体の20~30%は中国への外注に依存している状況であった[10]。個人向けの画材として一部の大手画材店などでは販売が継続されていたものの、業務用としてまとまった量の入手が困難になってきたことから、教育機関・養成機関などでのセル画技術の養成はもはや行われていなかった。いずれにしても、セル画は材料がやがて入手不可能になるものと考えられていた。
『サザエさん』が2013年よりデジタル彩色に移行したことにより、商業アニメの制作の現場ではセル画は事実上過去のものとなった。
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