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アメリカ合衆国の野球選手 (1859-1902) ウィキペディアから
フレドリック・ダンラップ(Frederick C. Dunlap、 1859年5月21日 - 1902年12月1日)は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィア出身のプロ野球選手(二塁手)。右投げ右打ち。
1888年発行の野球カードより | |
基本情報 | |
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国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 |
アメリカ合衆国 ペンシルベニア州フィラデルフィア |
生年月日 | 1859年5月21日 |
没年月日 | 1902年12月1日(43歳没) |
身長 体重 |
5' 8" =約172.7 cm 165 lb =約74.8 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 二塁手 |
プロ入り | 1880年 |
初出場 | 1880年5月1日 |
最終出場 | 1891年4月20日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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ニックネームは"Sure Shot"。1884年にユニオン・アソシエーションで攻守にわたってリーグ1位を独占する活躍をし、名二塁手としての名声を得た。
1880年、21歳の時にクリーブランド・ブルースの二塁手としてデビュー。85試合にフル出場し、リーグ最多となる27本の二塁打を放った。2年目には監督を兼任し、戦力的に充分でなかったチームを5位ながら勝ち越しに導き、自らも.325の打率を挙げチームを引っ張る存在となったが、クリーブランドでは打撃面より守備での活躍が目立つ選手だった。
1884年にユニオン・アソシエーションが創設された際、ダンラップはセントルイス・マルーンズに移籍し、それまででは考えられないほどの打撃面での活躍を見せた。安打数 (185)、得点 (160)、本塁打 (13)、打率 (.412)、出塁率 (.448)、長打率 (.621)はいずれもリーグトップの成績を残した。ユニオン・アソシエーションにおける個人の打点数は現在も判明していないが、他の部門の成績から見て、ダンラップがこの年のユニオン・アソシエーションの「三冠王」になっていたことは充分に推察される。また同じ年の二塁手の守備記録では、刺殺数、補殺数、併殺数、守備率と4つの部門でいずれもリーグトップだった。加えてこの年の6月27日以降、ダンラップはマルーンズの監督も兼任し、75試合の指揮をとっている。
マルーンズはユニオン・アソシエーション解体後、1885年にナショナルリーグに加盟するが、この年のダンラップの打撃成績は打率.270、114安打、本塁打2と特筆すべきものはなかった。その後も打撃面での目立った活躍はなく、専ら守備面でチームに貢献する選手だった。1886年にマルーンズの経営が行き詰ると、ダンラップは4,700ドルの金銭でデトロイト・ウルバリンズに放出される。その後ダンラップはピッツバーグ・アレゲニーズ(現パイレーツ)を経て1890年のプレイヤーズ・リーグに参加、1891年を最後に選手を引退した。1902年にフィラデルフィアにて死去。
※数字の後の"*"は、記録不明箇所があることを示す。
※1884年はいずれもユニオン・アソシエーションでの記録
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