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キリスト教系の新宗教 ウィキペディアから
末日聖徒イエス・キリスト教会(まつじつせいと イエス・キリストきょうかい、英: The Church of Jesus Christ of Latter-day Saints, 略称: LDS)は、イエス・キリストの元の教会の復元を主張する非三位一体派のキリスト教会である。
分類 |
キリスト教系の新宗教 末日聖徒 |
---|---|
体系 |
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統治 | 聖職者位階制 |
代表 | ラッセル・M・ネルソン(大管長) |
地域 | 176カ国・地域 |
創設者 | ジョセフ・スミス・ジュニア[LDS 1] |
創設日 | 1830年4月6日 |
創設地 |
アメリカ合衆国 ニューヨーク州フェイエット |
被独立 | LDS denominations |
会衆数 | 30,536[LDS 2] |
信徒数 | 16,313,735人[LDS 2] |
宣教師数 | 65,137人[LDS 2][注 1] |
教会数 | 161[LDS 2] |
援助組織 | LDS人道支援(LDS Humanitarian Services) |
高等教育施設数 | 4 (ブリガム・ヤング大学-3校、エンサインカレッジ-1校) |
別名 |
|
公式サイト | churchofjesuschrist.org |
法人番号 | 1010405001517 |
宗教学上ではキリスト教系の新宗教に分類されている[1][2][3]。「プロテスタントの一派[注 2]」と定義する見解もあり、日本の文化庁が発行する宗教年鑑では「末日聖徒イエス・キリスト教会」はキリスト教の中に数えられている[4]。一方、教義の違いから一般的に正教会とカトリック教会およびプロテスタント教会諸教派によって、末日聖徒イエス・キリスト教会は主流のキリスト教とは区別され[5][6][7][8][9][10][11]、「異端」視される[12]。創始者であるジョセフ・スミス・ジュニアによれば、スミスが受けた神の啓示によって原始キリスト教会が現代に回復されたという[LDS 3]。キリスト教の聖書の他に『モルモン書』など独自の聖典を持ち、教義においては三位一体説の否認、キリストおよび死者の復活、キリストの再臨、千年王国(至福千年)を説いている[13]。また人の運命(救い)を決めるのは本人の自由に任されていると主張している点はメソジスト、バプテスト派に類似すると指摘されている[13]。
本部はユタ州ソルトレイクシティにあり、全世界で1,700万人以上の会員と62,544人のフルタイムのボランティア宣教師を擁している(2022年12月統計)。2021年現在、米国だけで670万人以上の会員がいると報告されており、キリスト教の教派としては米国で4番目に大きい。
以前は「モルモン教」と通称されたが、2018年に教会の指導部は「モルモン教」という呼称について、信徒に対し、通称の「モルモン教」という名称を使用しないよう求める見解を発表した。「イエス・キリスト教会(Church of Jesus Christ)」あるいは「教会(Church)」と呼ぶべきと推奨し、通称「モルモン教会」は公認されたものではなく、「使用を推奨していない」とした[14]。
末日聖徒イエス・キリスト教会は、ジョセフ・スミス・ジュニア(1805年 - 1844年)によって、1830年4月6日、アメリカ合衆国にて設立された。
ジョセフ・スミス・ジュニアによれば、彼は14歳の時(1820年)、当時激化した教派間の争いや矛盾に疑問を抱き、新約聖書『ヤコブの手紙』1章5節を読み、どの教会が真実であるかを神に祈り求めたところ、父なる神とその子イエス・キリストが現れる示現を示され[15]、言葉を交わしたとされる。スミスによれば、イエスは「(既存の)いずれの教会もことごとく誤っているため、あなたはどの教会にも加わってはいけない」[15]とジョセフに告げ、イエス・キリストの教会を再び地上に回復するためにジョセフを預言者として選んだとされる。教会の信条によると、回復が必要であったのは、イエス・キリストと12使徒(イエスの弟子)の死後、神の神聖な儀式を行うための神権(神の権能)が地上から失われ、完全なる教義や儀式も聖書の人の解釈によって失われていたからだとされている。神権は1832年のサスケハナ川のほとりで、イエス・キリストの弟子であるペテロ、ヤコブ、ヨハネがジョセフ・スミスとオリバー・カウドリーに天使として現われ、按手により再び回復されてから現在まで受け継がれており、そのことにより現在に至るまで預言者による神の啓示は続いていると信じられている。
この宗教は、アメリカ合衆国建国(1776年)、合衆国憲法制定(1789年)、憲法修正第1条-第10条制定(1791年)、憲法修正第1条で宗教・信条の自由が史上初めて権利として認められた合衆国草創期に設立され、西部への入植の歴史があることから、「開拓期を象徴する宗教」とも言われる。
「モルモン教」という通称は教典とするモルモン書から由来しており、書の名前である「モルモン」とは古代アメリカ大陸に住み、当時の民の歴史を記録し、要約した預言者の名前であると信じられている。ジョセフ・スミスはこの書物を改良エジプト文字から英語に翻訳したとされ、1830年に発行された。
設立後、創始者であるジョセフ・スミス・ジュニアの死去や、一時的な(1852年から1890年の)[16]一夫多妻制の経過(多妻婚を禁じるさまざまな法を無視)[16]に伴う議論を経て、いくつかの教派に分かれたが、当該教会はその中の最大会派であり、設立時の名前を引き継いでいる。
2010年8月現在、教会の公式発表では全世界に1500万人の会員を擁する(ただしバプテスマとよばれる洗礼を受けていない8歳未満の末日聖徒家族の子供も含めた数)。そのうちの14%はユタ州に住み、教会員の半数以上はアメリカ合衆国外に居住している。数多くの宣教師(約8万人;2013年10月現在)が166か国で伝道活動を行っていることが教会の国際的な成長の理由として挙げられている。2006年には、教会員の半数以上がアメリカ外に居住していることが報告された。アメリカ国内の教会員の人種構成は非ヒスパニック系白人が85%以上を占め[17][18]、アメリカの総人口の全国平均と比べても白人比率は非常に高く、黒人やアジア系の比率は非常に低い[19]。
2010年8月現在、全世界で約2万8500箇所の礼拝施設を構え、日本国内には約340箇所ある。また、神の儀式を執行するとされる神殿は世界に177(2023年10月現在)あり、日本には東京と福岡と札幌と沖縄にある。合衆国の宗派としては4位の規模としているが、2001年のニューヨーク市立大学の調査では、10位に留まると推定している。
教会の本部はアメリカ合衆国のユタ州ソルトレイクシティにある。ジョセフ・スミス・ジュニアから続く歴代16代目の教会の最高指導者はトーマス・スペンサー・モンソンであったが、彼は2018年1月2日に死去した。
設立当初は、その教義の大胆さや政治的思惑により、武力による衝突があった。当時は、社会的に受容しがたい共同体生活と一夫多妻制などの許容に代表されるプロテスタント思想に逆行する教義と習慣に基づいた行動、集団による政治的脅威および、教会による実業活動の破綻に起因した投資家の大損害などが地元住民の反感を招いた。ミズーリ州ではモルモン戦争が勃発した。
ジョセフ・スミス・ジュニアは、あくまで「イエス・キリストの純粋な教え」という主張を繰り返したが、なんらかの損害を被った地元住民らには受容されがたく、暴動罪の容疑で収監されていたイリノイ州カーセージの牢獄にてジョセフ・スミス・ジュニアと兄のハイラム・スミスは共に住民による襲撃によって殺害された。
後を継いだブリガム・ヤングはアメリカ合衆国連邦政府と対立(ユタ戦争など)と譲歩を繰り返しながら、教会の一団を1846年よりイリノイ州より西部に移動させた。1847年に彼らが到達した地域は、1850年にユタ準州として承認された。
ブリガム・ヤングの後を引き継いだ指導者は、連邦政府や他の教派との融和傾向を強めていった。その後、クリーブランド政権(民主党)下の1896年にユタ州はアメリカ合衆国45番目の州として承認された。現在、ユタ州は共和党支持層の安定地盤とされている。
かつて存在していた明白な対立は現代ではあまり見られない。しかし今なお、末日聖徒イエス・キリスト教会を脱会した人々の中には、精神的被害を訴えたり、批判活動を展開する人は存在しており、特に批判活動をしている運動家は「反モルモン」と呼ばれる(「末日聖徒イエス・キリスト教会への批判」参照)。
末日聖徒の歴史は大きく次の時期に分けることができる。
1820年早春より、ジョセフ・スミス・ジュニアが『新約聖書』の「ヤコブの手紙」1章5節より啓発を受け、森に入って祈ったところ、父なる神とイエス・キリストの両者が現れて、教会を設立するよう伝えられたという。末日聖徒イエス・キリスト教会ではこの出来事を最初の示現と呼んでいる。1830年3月26日、『モルモン書』がニューヨーク州パルマイラで発行された。
1830年4月6日、ニューヨーク州フェイエットタウンシップにてジョセフ・スミスを中心とする6人を代表として当該教会が創設された。1831年、教会の本部をオハイオ州カートランドに移した。1838年に現在の当該教会の名称となった。
急速な教会の発展に伴って武力衝突が本格化し、創始者ジョセフ・スミスが殺害される。
1839年、教会の本部をイリノイ州ノーヴーに移した。ノーヴーは旧約聖書の言語ヘブライ語で「美しい所」の意とされる[20]。1840年代初頭、当初彼らを好意的に見ていた近隣住民は、モルモン教会の排他性や結束の強さに脅威を感じ、危機感を持ち、うらみを抱くようになった[20]。
モルモン教会を脱会した人物がジョセフ・スミスに対抗するため新聞を創刊し、モルモン教会のさまざまな汚点を追及すると、スミスはモルモン教支配下の警官を動員し、武力を持って新聞発行を阻止するために印刷機を破壊した。この破壊行為によってスミスは反逆罪の容疑で逮捕・収監された[20]。この時に暴徒2名が死亡し、1名が負傷した[20]。ウィリアム・ウッドによれば、スミスらはその信仰が問題にされたのではなく、その犯罪行為によって逮捕されたという[20]。1844年6月27日、武装し、暴徒と化した住民が監獄を襲撃した。末日聖徒イエス・キリスト教会の記録(教義と聖約135章)[LDS 4]によれば、ジョセフ・スミスは彼の兄ハイラム・スミスおよび後の末日聖徒イエス・キリスト教会の第3代大管長ジョン・テーラー並びにウィラード・リチャーズと共にイリノイ州カーセージの監獄に収監中、150人ないし200人とされる武装した市民の襲撃を受けた[LDS 4]。この襲撃で教会の創始者ジョセフ・スミスとその兄ハイラム・スミスは銃撃によって殺害された[LDS 4]。
迫害を逃れて米国西部へ移住し教勢が拡大する。
1846年、末日聖徒の一団はイリノイ州よりアメリカ西部への移動を始めた。残留者グループは1860年に別教団を創設した。1847年7月24日、ブリガム・ヤングと末日聖徒の一団がソルトレイク盆地に到着した。以後この地に定住し、同時に教会の本部もソルトレイクとなった。
1857年9月11日、「マウンテンメドウの大虐殺」が発生し、これをきっかけにユタ戦争が勃発した。1858年、戦争は和平を模索する形で終結し、虐殺事件の首謀者らは取引として政府に引き渡され、全責任を負う形で銃殺刑にされた。
ユタ戦争を決着し、世界に向けて伝道開始した。米国、ヨーロッパ、ポリネシア、オーストラリアを含む太平洋地域に組織が拡大した。日本には、1901年にヒーバー・J・グラント長老以下4名の宣教師が伝道し、9月1日に最初の奉献が行われた。1970年の日本万国博覧会(大阪万博)には、パビリオンを出展した[21]。
末日聖徒イエス・キリスト教会の戦争に対する姿勢は「選択的平和主義」である[22]。これは暴力および武力に対して個々の場合によって賛成・反対を決めるという主義である[22]。19世紀のメキシコ戦争には派兵したが、南北戦争には参加しなかった[22]。20世紀後半のベトナム戦争と1991年の湾岸戦争に対しては、アメリカ合衆国の多くのキリスト教教派が戦争に反対したにもかかわらず、末日聖徒イエス・キリスト教会は武力攻撃に賛成した[23]。ベトナム戦争の時は信者の海外伝道の義務より兵役を優先させた[23]。
末日聖徒イエス・キリスト教会は、戦争や地域紛争に関して、キリストの再臨の日までなくなることはないという考えを持っており、個々の戦争や地域紛争に関して公式なコメントを出すことは稀である[要出典]。しかし、第二次世界大戦が勃発した1942年4月に、次のコメントを発表した。「教会は戦争に反対の立場である。いや反対しなければならない。主が新しい命令を下さない限り戦争を仕掛けることはできない。戦争が国際紛争を解決する正しい手段であるとみなすことはできない。国際紛争は平和的な交渉や調整によって解決しなければならない。国々が同意すればできるはずである。」[要出典]
さらに広島の原爆投下についてアメリカに対して非難の声明を発表した。第二次大戦終了後の1946年10月5日に公式の席で、当時の最高指導者会に属するJ.ルーベン・クラーク副管長が、以下のコメントを残している。「この戦争の最たる残忍性は、われわれアメリカ人が日本に原爆を投下して何十万もの民間人を消し去ってしまったことである。…軍関係者は今原子爆弾は間違いであったと言っている。それどころではない、あれは世界にとって悲しむべき惨事であった。…原爆の惨事で最悪のことは全米国民がそろってこのおぞましい大量虐殺を承認したことであった。」[要出典]
1991年の湾岸戦争のときに末日聖徒イエス・キリスト教会の最高指導者の一人トーマス・S・モンソンは「モルモン教会は常に国家に忠実であれと教えてきた。戦争の時には、われわれは国旗に忠実であることに躊躇しない。(中略)現在、三万五〇〇〇人のモルモン教徒が兵役についており、五四〇〇人がサウジ・アラビアに派遣されている。彼らは自由とアメリカ的伝統のために戦っているのだ。」と語った[23]。
完全な肉体を持つ天の父なる神と、その長子イエス・キリストと、霊体でありイエスをキリストと証明する聖霊とを信じ、父なる神とイエス・キリストと聖霊はそれぞれ別個の存在であって、人類の救いという目的のために常に一致して事をなすとされている(三位一体の否定)。アダムの咎は、神が与えた自由意志の結果であり、人類を生ずるために神の目に適った行いであった(原罪の否定)。この咎によって堕落が生じ、この世に不完全さと死がもたらされ、すべての人は自分の行いにより真理を学ぶ機会を与えられた。イエスはアダムの咎の責任と、万物の不具合を埋め合わせるために死をもって贖いを完成し、キリストとして人を父なる神にとりなす者となった。人の救いに関しては、イエス・キリストによって、全人類は、当人の思いと行いに応じて、最後の審判の日に相応に裁かれると信じている。
神の国(天国)には、後述するような三つの段階(日の光栄、月の光栄、星の光栄)があり、神の国に入る条件を拒絶した者(聖霊を汚した者など)は「外の暗闇(地獄)」に追い出される。最後の審判の目的は、当人が天のどの光栄に所属するか、あるいは神の国の外に追われるかを決定するものである。
神の国に入った者は互いに助け合って永遠に成長する機会が与えられる。その中には神格が与えられる者も出る。最後の審判の日に、神、キリストを拒み、聖霊までも拒む者は、神の国には入れずサタンと共に取り残される。生のあるうちに教団の教えを聴く機会のなかった者でも、来世においてそれを聞く機会が与えられ、死後でも、イエス・キリストを受け入れるかどうかは本人の選択の自由に任せられ、選ぶことの出来る期間が与えられていると信じられている。
末日聖徒イエス・キリスト教会では、戒めは「あるべき理想像」そのものではなく、救いにとって必要条件であるが、機械的に戒めを守っているだけでは救われない。末日聖徒イエス・キリスト教会の「戒め」とは、人が神の器としての水準を維持するための安全基準として自ら進んで守るべきものとされている。
末日聖徒イエス・キリスト教会は教義上の理由から結婚制度は男女間のみと定めており、同性婚を認めていない。20世紀までは同性愛を罪悪視していたが、現在は同性愛自体は否定しない立場をとり、同性愛者でも入信を歓迎している。モルモン教徒が人口の6割を占めるユタ州では結婚防護法で同性婚を禁じていたが、連邦地裁が2013年12月にこの結婚防護法を違憲と判断した。ただしユタ州政府が控訴したため、現在も同性婚を禁じる州法は有効である。モルモン教会は現在の州法を支持しているが、教会に対する批判も高まっており、一部の信者は、同性愛者の権利擁護を訴えるパレードの会場にフリーハグのブースを設けるなどの融和策をさぐる動きもある[27]。
末日聖徒イエス・キリスト教会はネイティブアメリカンとポリネシア人をモルモン書に登場するエルサレムから逃れた民族の末裔だと教えている。ポリネシア人はモルモン書のアルマ書63章5節[LDS 24]に登場する「ハゴス」と呼ばれ、アメリカ大陸から西へ船で旅立った者たちの子孫だと考えられている[注 3]。また黒人については、カイン[LDS 25]の末裔であると考えていた時期があった。
教会が設立されて間もない頃は、構成する会員はヨーロッパを由来とする白人が多く、コロニアリズムや白人至上主義の思想が未だ根強く残っており、教会の中にもその影響はあった。中でも、ジョセフ・スミスが1842年に著した『アブラハム書』の中で、旧約聖書の記述を論拠として、黒人には神権が与えられないと明言したことが後々まで大きな影響を与えた[28]。
しかし、教会の会員は北部諸州出身の者が多く、もともと奴隷制度には反対であり、奴隷を認めていたミズーリ州では政治的摩擦の要因となった[LDS 26]。またエイブラハム・リンカーンの奴隷解放運動に賛同して、南北戦争には北軍として参加している。黒人への待遇は、1978年の「公式の宣言」によって、公式の見解として、人種にかかわらず神権が付与されるようになった[LDS 27]。
ネイティブアメリカンをエルサレムから逃れた民族の末裔と考えてきた教会は、当時の一般的なアメリカの風潮と異なり、積極的に彼らと良好な関係を結ぶことで、改宗させようと試みてきた歴史がある[LDS 28]。また人道的理由から、米国の法律に基づいて里親制度を創設し、ネイティブアメリカンの親から虐待を受けた児童を保護して、養子縁組を積極的に行い、自らの実子と同じ環境の教育を施してきた[LDS 29]。
しかし、この里親制度について、オジブワ族を代表する人権活動家の一人デニス・バンクスは、この手法は民族浄化であると批判している。
デニス・バンクスが写真家リチャード・アーダースの著書「オジブワの戦士」で語った内容には、下記のような一節がある。
また、末日聖徒イエス・キリスト教会は、地元のネイティブアメリカン部族と提携し、あとからやってくる白人の幌馬車隊を襲撃してユタへの侵入を妨害したとされている[30]。
2006年9月5日の地域会長会の書簡により大管長会および十二使徒定員会の正式な承認の元、役職の名称が一部変更になった。
副会長、副監督、副支部長のそれぞれの名称を「顧問」とすることが承認され、また、監督の名称を「ビショップ」、伝道部長を「伝道部会長」と名称変更がされた。第1副監督としたものを第1顧問、第2副監督としたものを第2顧問と呼んでいる。
末日聖徒の多くの家庭は、幼少期から神と人に仕えるだけの宣教活動へ貯金している。世界には約400か所の伝道部があり、日本には東京(東京都区部、関東地方、新潟県)、東京南(東京都多摩地域、神奈川県、山梨県)、福岡(九州地方)、札幌(北海道地方)、仙台(東北地方)、名古屋(中部地方)、神戸(近畿地方、四国地方、中国地方)の7つがある。専任宣教師となるためには、若い男性であれば18歳以上で2年間、女性では19歳以上で1年半とされており、原則として実費である。多くの宣教師は、大学を休学したり、高校卒業後に資金をためるためにアルバイトや仕事をするものが多い。宣教師は自分で任地を指定できないが、日本には英語圏からの宣教師が多いことから、奉仕活動として、無料英会話教室が実施されている。
この節の加筆が望まれています。 |
教義的には人は亡くなると、霊と朽ちるべき体に別れ、霊だけが生きて霊界へ行き、残された遺体は意味をなさなくなる。従って葬儀については規定はなく故人の自由である。キリスト教式、仏式、神道式など合法的であればどれで行っても、特に罪に定められるということはなく、磔刑後のキリストは当時のイスラエル式で葬儀されたと信じている。しかしながら、習慣的には(十字架を使わない)キリスト教式が一般的である。
末日聖徒イエス・キリスト教会は、教会員の寄付(断食献金)の一部を人道的援助の運用にあてている。たとえば最近では日本においては東日本大震災の復興支援を目的に2011年3月に発足したモルモンヘルピングハンズ東北復興プロジェクトがあり[LDS 30]、福島県いわき市から宮城県牡鹿郡女川町、岩手県宮古市まで19の地域で復興支援を行った[LDS 31]。(活動内容は、救援物資の提供、瓦礫の処理の手伝い、製氷装置や保冷車の寄贈などが報告されている[LDS 32]。)
モルモンヘルピングハンズが行ったその他の救援・復興支援活動としては、1995年1月に日本で発生した阪神淡路大震災の復興支援、2005年8月にアメリカ南部を発生したハリケーン・カトリーナの復興支援、2006年3月にエチオピア南部で行われた「はしか撲滅運動」などが報告されている[LDS 30]。
教会組織としてだけではなく、教会員が個人的に教会の活動内容や教会員自身の信仰に関する記事や写真などをインターネット上にブログとして発信する活動も活発に行われており、アメリカ本国ではこれを「ブロゴスフィア」(en:Mormon blogosphere)または「ブロガーナクル」(Bloggernacle)と言う。
教会の財政に関して教会運営が秘密主義で透明性を欠いているとの批判がある[37][38][39]。教会が管理する1000億ドルのファンドが開示され、教会財産が過剰ではないかと批判された[40]。教会がその法人構造を利用して「非課税事業と通常事業間で融資か寄付か投資として金銭と資産を移動させて、財産と資本の管理を最適化させている」と批判的なコメンテーターは主張している[41]。
教会はオーストラリアで「重大な脱税」で告発された。オーストラリアの新聞『ジ・エイジ』と『ザ・サン・ヘラルド』の調査によると、教会の法人であるLDSチャリティーズオーストラリアは毎年7000万ドル近くの寄付を受け取っていた。しかし実はチャリティー(慈善活動)にはほとんど使っていなかったようである。調査によれば、収入の十分の一の献金や他の宗教献金が非課税であることを確実にするためにこの宗教団体を通されていた。調査報告はその発見について教会内部文書を参照して確認していない。[42][43]
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