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明治、大正、昭和期の日本の軍人 ウィキペディアから
加藤 寛治(かとう ひろはる/かんじ、1870年10月26日(明治3年10月2日) - 1939年(昭和14年)2月9日[1])は、明治、大正、昭和期の日本の海軍軍人、海軍大将。福井県福井市出身。元福井藩士、海軍大尉・加藤直方の長男。息子・孝治は陸軍大将・武藤信義の養子。
攻玉社を経て、1891年(明治24年)に海軍兵学校18期首席卒業。砲術練習所学生、戦艦「富士」回航委員(英国出張)・分隊長、通報艦「龍田」航海長などの役目を果して、ロシア駐在となった。この時、同地にいた広瀬武夫と親しくしていた。海軍部内切ってのロシア通と呼ばれる存在であった[2]。
1904年(明治37年)3月、戦艦「三笠」砲術長として日露戦争に参加し、それ迄の各砲塔単独による射撃を、檣楼上の弾着観測員からの報告に基いて砲術長が統制する方式に改め、遠距離砲戦における命中率向上に貢献した[3][4]。戦争後半の1905年(明治38年)2月に海軍省副官兼海相秘書官として勤務した。
戦後、1907年(明治40年)1月から8月まで伏見宮貞愛親王に随行しイギリスに出張し、装甲巡洋艦「浅間」「筑波」副長を歴任。1909年(明治42年)、駐英大使館付武官。1911年(明治44年)、海軍兵学校教頭。
第一次世界大戦中、南遣枝隊の指揮官としてイギリス海軍と協同してドイツ艦船の警戒に任じた。この時の指揮統率は見事であったという。1920年(大正9年)6月に海軍大学校校長を務めた。
1919年7月から翌年6月にかけて、加藤は視察団の団長として、ドイツを含むヨーロッパ諸国に派遣された。アルフレート・フォン・ティルピッツ提督やパウル・ベーンケ提督らのドイツ海軍首脳には、ヴェルサイユ条約で厳しく制限されたドイツの将来の発展のために、その技術力を海外で温存、発展させようという意図があり、ドイツ海軍の好意の下に視察を終えた加藤は、ドイツの技術力を高く評価する御前報告を行った。1921年、加藤は首席随員としてワシントン会議に赴く途中、再びドイツにティルピッツ提督を訪れ、将来の日独両海軍の相互協力関係強化を働きかけた[5]。
ワシントン会議には首席随員として赴くが、ワシントン海軍軍縮条約反対派であったため、条約賛成派の主席全権加藤友三郎(海相)と激しく対立する[6][7]。しかしワシントン軍縮条約後の人員整理(中将は9割)で、“ワンマン大臣”と呼ばれた加藤友三郎が加藤寛治を予備役に入れず、逆に軍令部次長に据えたことなどから、加藤友三郎は加藤寛治を後継者の一人と考えていた可能性さえあり、両加藤の間に決定的な対立は存在しなかったという見方もある[8]。
1926年(大正15年)12月から1928年(昭和3年)12月まで連合艦隊司令長官兼第1艦隊司令長官、その間、1927年(昭和2年)4月1日に海軍大将に昇進している。東郷平八郎の「訓練に制限なし」という言葉をモットーに猛訓練を行う。 しかし、同年8月24日の夜間訓練中に4隻が衝突する美保関事件が発生、駆逐艦が1隻沈没[9]するなどにより殉職119名を出した。査問委員会で査問に付されるが責任問題は退けられる。
1929年(昭和4年)1月、鈴木貫太郎が急遽侍従長に転じた後を襲って、海軍軍令部長に親補された。ロンドン海軍軍縮条約批准時にも巡洋艦対米7割を強硬に主張し反対、首相濱口雄幸、海相財部彪と対立。これが統帥権干犯問題に発展し、1930年(昭和5年)6月の条約批准後、帷幄上奏(昭和天皇に直接辞表を提出)し軍令部長を辞任。岡田啓介ら条約派に対し、伏見宮博恭王・末次信正らとともに艦隊派の中心人物となった。
晩年、元帥府に列しようとする話が持ち上がったが、条約派の反対で沙汰やみになった、1935年(昭和10年)11月2日、後備役。1939年(昭和14年)2月9日、脳出血により死去。対米強硬派であったが、最晩年には米英との交戦を避ける心境に近づいていたといわれる。
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