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1971年の日本映画 ウィキペディアから
『呪いの館 血を吸う眼』(のろいのやかた ちをすうめ)は、1971年(昭和46年)6月16日に公開された東宝製作の日本の特撮怪奇映画。キャッチコピーは「白い霧が森を流れる夜 地下室の棺の蓋が開く! 花嫁衣裳の死美人が立ち上る」。
“血を吸う”シリーズの第2弾[7][8]。82分、カラー、シネマスコープ作品[出典 3]。
この節にあるあらすじは作品内容に比して不十分です。 |
中学教師の柏木秋子は、5歳の時に見た悪夢が現在でも気になっていた。ある日、悪夢に見た異様な眼を持つ男性が現れて秋子を襲い、妹の夏子も男性の術中にはまって手先となる[8]。この事態を解決する手がかりは悪夢にあり、失われた記憶を恋人の佐伯の催眠療法によって辿った秋子は、悪夢に現れていた洋館を共に訪ねる[8]。そこで、男性の正体が吸血鬼であり、秋子を花嫁に迎えるために彼女が成人になるまで待ち続けていたことが明らかとなる。
自身が怪奇映画の大ファンであるというプロデューサーの田中文雄は、新しい東宝の映画路線として怪奇映画『幽霊屋敷の恐怖 血を吸う人形』を前年に制作・公開し、ヒットさせていた。これを受け、翌年の1971年に本作品が製作され、「血を吸うシリーズ」と呼ばれる怪奇ロマン映画が連作されることとなった[8]。本作品は、日本初の吸血鬼映画と称される[8][注 3]。
シリーズ第1作の『血を吸う人形』は、田中によると、まだ手探りで製作していたような状態であったが、本作品ではいよいよ田中の念願である、ハマー・プロの人気シリーズだったクリストファー・リー主演の「ドラキュラ映画」の日本版を狙った作劇が行われた[出典 5]。前作に引き続く不気味な洋館を舞台にしたゴシック・ホラー風味も、田中が狙った演出である。脚本タイトルは『幻の吸血鬼』だった[12][8]。
田中は吸血鬼役に岡田眞澄を推したがスケジュールの都合がつかず、監督の山本迪夫が推薦した岸田森が起用された[出典 6]。山本と岸田は、山本が演出を務めていたテレビドラマ『東京コンバット』(1968年)に岸田が犯人役で出演した際に出会っており、意気投合したという[11][8]。
山本の回想によると、『血を吸う人形』と同年の『悪魔が呼んでいる』の監督当時に渋り気味だったことから、東宝の製作部長から怪奇映画をもう1本撮ることを許可された。岸田でなければ撮りたくないと主張してキャスティングは決まったが、吸血鬼役らしい長身痩躯に見せるため、ハイヒールを履いて撮影したという[8]。山本は、他者の血を欲する吸血鬼を植物と捉え、岸田の顔色などがそのイメージに合っていた旨を後年に語っている[10]。前作に引き続き山本が同時上映作品も監督することになった経緯は明らかになっていない[8]。
岸田は山本の師匠にあたる岡本喜八作品の常連としても知られるが、そちらの初出演も1968年(山本はすでに岡本組のチーフを卒業している)なので、並行して師弟2人の監督と関係を深めていったことになる。[独自研究?]
音楽は、前作に引き続き眞鍋理一郎が担当した[14]。本作品では短い楽曲を多用することで、効果音に近い観客を惹きつける役割を担った[14]。吸血鬼の登場場面では、コントラファゴット、バスクラリネット、アルトフルートなどの低音楽器を前面に出し、コンボオルガンやライオンズローアなどの特殊楽器により不可思議な音色を表現している[14]。
劇中で岸田森が演じる「吸血鬼」は、小説や映画の「ドラキュラ伯爵」をモチーフにしている。
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