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戦国時代から江戸時代前期の武将。遠江掛川藩主、紀伊田辺藩初代藩主、紀州藩附家老初代。従五位下・帯刀先生。江戸幕府 老中。安藤基能の長男 ウィキペディアから
安藤 直次(あんどう なおつぐ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。紀伊国田辺藩(紀州藩附家老)[3]初代藩主。官位は従五位下・帯刀先生。慶長5年(1600年)から元和2年(1616年)までは幕府老中を務めた[4]。
安藤基能の長男として誕生した[5]。幼少期から徳川家康に仕え、元亀元年(1570年)の姉川の戦いを皮切りに長篠の戦いにも参戦した。
天正12年(1584年)からの小牧・長久手の戦いで弓を失い家康から弓を与えられた[4]。天正18年(1590年)に家康が関東に移されたとき、1,000石の所領を与えられた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康の使番として従軍し、慶長8年(1603年)の家康将軍宣下にも参加して、慶長10年(1605年)正月には武蔵国において2300石の所領を与えられた[4]。そして、本多正純や成瀬正成と共に家康の側近として初期幕政を取り仕切った[4]。
慶長15年(1610年)、家康の命により徳川頼宣(長福丸)付の家老に任じられた[4]。その後も大御所家康の側近として駿河政権に参画し、遠江国横須賀藩主・大須賀忠次の後見人にもなった。慶長19年(1614年)からの大坂の陣では、附家老として年少の頼宣に代わって軍を率いて参戦するほか、頼宣代理として義直代理の成瀬正成と共に軍議に参加した[6]。夏の陣では長男・重能が討ち取られた[4]。
元和3年(1617年)、遠江掛川城主となった[4]。元和5年(1619年)7月19日、頼宣が紀伊和歌山城に移ると、紀州藩附家老として移り、同国田辺城に3万8000石の所領を与えられた[4]。頼宣からは厚く信任を受け[4]、後に頼宣は「自分が大名としていることができるのは、直次がいてくれたからだ」とまで述べている。
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