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古代中国の書物 ウィキペディアから
『易経』(えききょう、正字体:易經、拼音: )は、古代中国の書物で五経の一つ。著者は厳密には不明だが、『周易正義』等に載せる伝説では六十四卦を作ったのが伏羲、本文(卦爻辞)を作ったのが周公旦とされている[注釈 1]。 中心思想は、陰陽二つの元素の対立と統合により、森羅万象の変化法則を説き、人間処世上の指針・教訓の書とされる。語句は簡潔で、含蓄が有るとされる。[1]
「玄学」の立場からは『老子道徳経』・『荘子』と合わせて「三玄(の書)」と呼ばれる。 また、中国では『黄帝内經』・『山海經』と合わせて「上古三大奇書」とも呼ぶ。
周易の記事も参考のこと。
儒教の基本書籍である五経の筆頭に挙げられる経典であり、『周易』(しゅうえき、Zhōu Yì)または単に『易』(えき)とも呼ぶ。通常は、基本の「経」の部分である『周易』に儒教的な解釈による附文(十翼または伝)を付け加えたものを一つの書とすることが多く、一般に『易経』という場合それを指すことが多いが、本来的には『易経』は卦の卦画・卦辞・爻辞部分の上下二篇のみを指す。
三易の一つであり、太古よりの占いの知恵を体系・組織化し、深遠な宇宙観にまで昇華させている。
古来、占いを重視する象数易と哲理を重視する義理易があり、象数易は漢代に、義理易は宋代に流行した。
『史記』日者列伝で長安の東市で売卜をしていた楚人司馬季主と博士賈誼との議論において、易は「先王・聖人の道術」であるという記述がある。[2]
この書物の本来の書名は『易』または『周易』である。『易経』というのは宋以降の名称で、儒教の経書に挙げられたためにこう呼ばれる。
なぜ『易』という名なのか、古来から様々な説が唱えられてきた。ただし、「易」という語がもっぱら「変化」を意味し、また占いというもの自体が過去・現在・未来へと変化流転していくものを捉えようとするものであることから、何らかの点で “変化” と関連すると考える人が多い。
有名なものに「易」という字が蜥蜴に由来するという “蜥蜴説” があり、蜥蜴が肌の色を変化させることに由来するという。
また、「易」の字が「日」と「月」から構成されるとする “日月説” があり、太陽と太陰(月)で陰陽を代表させているとする説もあり、太陽や月、星の運行から運命を読みとる占星術に由来すると考える人もいる。
伝統的な儒教の考えでは、『周易正義』が引く『易緯乾鑿度』の「易は一名にして三義を含む」という「変易」「不易」「易簡(簡易)」(かわる、かわらぬ、たやすい)の “三易説” を採っている。
また、『周易』の「周」は中国王朝の周代の易の意であると言われることが多いが、鄭玄などは「周」は「あまねく」の意味であると解している。しかし、『史記』日者列伝には、「周代において最も盛んであった」という記述がある。[2]
現行『易経』は、本体部分とも言うべき(1)「経」(狭義の「易経」。「上経」と「下経」に分かれる)と、これを注釈・解説する10部の(2)「伝」(「易伝」または「十翼(じゅうよく)」ともいう)からなる。
「経」には、六十四卦のそれぞれについて、図像である卦画像と、卦の全体的な意味について記述する卦辞と、さらに卦を構成している6本の爻位(こうい)の意味を説明する384の爻辞(乾・坤にのみある「用九」「用六」を加えて数えるときは386)とが、整理され箇条書きに収められ、上経(30卦を収録)・下経(34卦を収録)の2巻に分かれる。別名を「卦爻辞」ともいう。[3]中国思想研究家の浅野裕一は、最古の本である「上海簡本」を解読し、本来の易は経のみで、注はなく、易者の眼の前に六十四卦を一覧できる竹簡を置き、それを見て占っていたのだろうと推定している。[4]
「伝」(「易伝」、「十翼」)は、「彖伝(たんでん)上・下」、「象伝(しょうでん)上・下」、「繋辞伝(けいじでん)上・下」、「文言伝(ぶんげんでん)」、「説卦伝(せっかでん)」、「序卦伝(じょかでん)」、「雑卦伝(ざっかでん)」の計10部である。これらの中で繋辞伝には小成八卦の記述はあるものの、大成卦の解説では大成卦を小成八卦の組み合わせとしては解しておらず、繋辞伝が最初に作られた「伝」と推測される。
「十翼」はすべて孔子の作という伝承があったが、後述のように北宋の欧陽脩が「『文言』・『説卦』の下は、皆な聖人(孔子)の作に非ず。而して衆説淆乱し、亦た一人の言にあらざる也。」と否定したものがほぼ定説化しており、現在では「繋辞伝上・下」を除くと孔子の作ではなく、戦国から秦漢の無名の人が儒家にひもづけたものであるとされている。[5] 1973年、馬王堆漢墓で発見された帛書『周易』写本に「十翼」は無く、付属文書は二三子問・繋辞・易之義・要・繆和・昭力の六篇で構成されていた。中国思想研究家の浅野裕一は、「本来易と儒教とは関係がなかったはずだが、戦国時代には易の難解な内容を儒教的に解釈する注釈がいくつかあり、強引かつ牽強付会の説が多く唱えられた。」「現在の易経の版本では彖、象を本文に組み込んでいるが、最古の本である「上海簡本」ではそれがなく、経(卦爻辞)のみである。前漢の費直が彖、象を本文に付け加える形にしたのだ」としている。[6]
現代出版されている易経では、一つの卦に対して、卦辞、彖、象、爻辞の順でそれぞれが並べられていることが多く、「経」、「彖」、「象」を一体のものとして扱っている。たとえば「易―中国古典選10」[7]では、一つの卦は、王弼・程頤にならい以下のように編集されている。
- 卦:(経)卦のシンボルイメージ。伏羲作とされる。
- 卦辞:(経)卦の名前と説明。文王作とされる。
- 彖伝:(伝)卦辞の注釈。
- 大象:(伝)象伝中の卦の説明部分。
- 爻辞:(経)初爻の説明。周公作とされる。
- 小象:(伝)初爻に関する、象伝中の爻の説明部分。
(のこり5爻の爻辞・小象)
- 文言伝:(伝)乾坤の卦のみ。
古くは三易(連山易・帰蔵易・周易)が存在したとされ、「連山」「帰蔵」を鄭玄はそれぞれ夏代・殷代の易と解している。「連山」「帰蔵」は後世に伝わっていない。ただし、王家台秦墓で発見された竹簡が「帰蔵」である可能性がある[8]。王家台秦簡の記事も参考のこと。周易は主な版本が4つある。十三経注疏本・帛書本・上海簡本・阜陽本の4つである。
なお、清華簡の『別卦』も参考のこと。
易経の繋辞上伝には「易は聖人の著作である」ということが書かれている。古来の伝承(『漢書』芸文志)によれば、易の成立は以下のようなものであったという。 まず伏羲が八卦を作り、さらにそれを重ねて六十四卦とした。[11]周の文王がと周公旦が卦辞・爻辞を作ったという。この『易』作成に関わる伏羲・文王(周公)・孔子を「三聖」という(文王と周公を分ける場合でも親子なので一人として数える)。[12]
漢学者の高田眞治は、東洋史学者の白鳥清の説やフレーザー『金枝編』、甲骨文字の研究をもとに、この伝説を下記のように考察している。[13]
そして、孔子が「伝」を書いて商瞿(しょうく)へと伝え、それ以降儒家である荀子の学派によって儒家の経典として取り込まれた。荀子を経て漢代の田何(でんか)に至ったものとされる。
孔子が晩年易を好んで伝(注釈、いわゆる「十翼」といわれる彖伝・繋辞伝・象伝・説卦伝・文言伝)を書いたというのは特に有名であり、『論語』述而篇にも
子曰く、「我に数年を加え、五十にして以て易を学べば以て大過なかるべし」[14] — 孔子、『論語』述而篇
という孔子の述懐が見えており、その他、子路編・憲問編でも易の文を引用して孔子が発言したところがあり、孔子が易と関係があったことは事実であろうと高田眞治は考えている。[15]『史記』孔子世家には「孔子は晩年易を愛読し、彖・繋・象・説卦・文言を書いた。易を読んで竹簡のとじひもが三度も切れてしまった」と書かれており[16]、「韋編三絶」の故事として名高い。
しかしながら、この伝説は古くから疑問視されていた。易の文言が伝承と相違している点が多いためである。その嚆矢となったのは宋の欧陽脩である。彼は著書『易童子問』において「十翼は孔子の著作ではない。複数の人間の著作物だろう。内容が混乱しており、1人の作とは思えない」と疑問を呈した。
童子問うて曰く。「『繫辞』はこれ聖人の作に非ざるか。」曰く。「何ぞ独り繫辞のみならんや。『文言』・『説卦』の下は、皆な聖人の作に非ず。而して衆説淆乱し、亦た一人の言にあらざる也。」 — 欧陽脩、『欧陽脩集』巻七十八、易童子問ウィキソース 歐陽修集 卷七十八·易童子問卷三
宋代以降易経の成立に関する研究が進めば進むほど、伝説が信じがたく、欧陽脩の説が正しいことが明らかになっていった。内藤湖南は論文『易疑』で
「殊に歐陽修が十翼を以て一人の手に成つたものでないとしたのは卓見と稱すべきである。」 — 内藤湖南、『易疑』内藤湖南全集 第七卷『易疑』(青空文庫版)
と欧陽脩の説を評価し、更に
「商瞿以來の傳授が信ぜられぬことの外、即ち田何が始めて竹帛に著はしたといふことは、恐らく事實とするを得べく、少くとも其時までは易の内容にも變化の起り得ることが容易なものと考へられるのである。それ故筮の起原は或は遠き殷代の巫に在りとし、禮運に孔子が殷道を觀んと欲して宋に之て坤乾を得たりとあるのが、多少の據りどころがあるものとしても、それが今日の周易になるには、絶えず變化し、而かも文化の急激に發達した戰國時代に於て、最も多く變化を受けたものと考ふべきではあるまいか。」 — 内藤湖南、『易疑』内藤湖南全集 第七卷『易疑』(青空文庫版)
と述べ、易経は孔子が関わってはいるだろうが、戦国時代に相当な変更があっただろうと考えた。
また高田眞治も、
孔子と易との関係があったことは窺(うかが)うことができるけれども、しかしながら孔子が十翼を作ったということについては、宋の欧陽脩以来これを疑う者が多く、十翼が孔子の作にあらずということは、その後の多くの学者によって容認されている。 — 高田眞治、『易経(上)』岩波文庫、P24、1969。
と述べ、欧陽・内藤の説は定説であることを認めている。
なお、十翼については近現代の学者たちの間でも誰が作者かは様々な説がある。清代から現代日本にかけての学者たちの説を以下に要約する。
前述の欧陽脩の説を発展させたもの。根拠としては、杜預が見た晋代出土の『易経』には十翼が全く無かったこと、『論語』など先秦の儒家の説に易についての話がほとんどないこと。浅野裕一もこれに近いが、出土した最古のテキスト「上海簡本」の研究により、秦漢ではなく、それ以前の戦国時代の儒家が徐々に作ったのだろう、武内らは年代を下げて考えすぎているとしている[17]。ただし元勇準は、浅野裕一の見解にたいして、「郭店楚簡の成書年代を戦国中期と見る説を無批判的に従っており、『周易』に対しても思想史的な検討を行っていない」(元勇準『『周易』の儒教経典化研究 : 出土資料『周易』を中心に』)と指摘している。なお本田済は、「孔子が十翼を作ったということだけではない、孔子が易を読んだことすらが疑わしい」[18]と述べている。ただし高田眞治は、「たとえ十翼が孔子自ら筆を下して作ったものでないとしても十翼は孔子門流、特に子思、孟子の学派の手によって成り、その中には孔子の思想が含有せられているものとみてさしつかえないであろう」[19]と述べている。
この論者たちは、漢代の記録を重視する。記録にはしばしば「孔子が繋辞伝を作った」という記載があるため、孔子の作ではないかとした。すなわち卦辞・爻辞・繋辞伝のみが原型だったというのである。郭沫若は荀子の説が「繋辞伝」に入っていることを指摘したが、荀子は孔子の正当な学問(いわゆる斉魯の学、今文経学、『春秋公羊伝』)を受け継いでおり、[20]伝承の系統も明らかである。逆に『易経』の十翼のうち説卦伝・序卦伝・雑卦伝の三伝は漢末に無名の人物が発見したという記録を重視した。劉歆はこの頃経書(いわゆる公羊伝を否定する古文経学)の偽造を盛んに行っていた疑いがある人物で、『周礼』・『春秋左氏伝』なども彼の偽造という説が存在する。これらは劉歆が担いでいた王莽のお家乗っ取りの理論武装に用いられた。[21]
前述の説の異説である。毛奇齢は「宋儒の狂妄なる、欧陽修輩の如き、動もすれば輒ち夫子の作に非ずとするは、忌憚無きの甚だしき者と謂うべし」と述べている。清朝考証学では「彖伝・象伝」は孔子の言葉だと信じて疑わない学者は多かった[22]。なお、本田済は、「(清代の考証学について)それは一見、近代的な科学精神に貫かれた学問のようではあるが、なお経書の宗教的権威は無視していないのである」「しかしその科学的批判のメスの及ぶ範囲に限界がある。経典自体の神聖性にまでは及ぼさないのである」と批判している[23]。
古代中国、殷代には、亀甲を焼き、そこに現れる亀裂の形(卜兆)で、国家的な行事の吉凶を占う「亀卜」が、神事として盛んに行われていたことが、殷墟における多量の甲骨文の発見などにより知られている。西周以降の文の、「蓍亀」や「亀策」(策は筮竹)などの語に見られるように、その後、亀卜と筮占が併用された時代があったらしい。両者の比較については、『春秋左氏伝』僖公4年の記に、亀卜では不吉、占筮では吉と、結果が違ったことについて卜人が、「筮は短にして卜(亀卜)は長なり。卜に従うに如かず(占筮は短期の視点から示し、亀卜は長期の視点から示します。亀卜に従うほうがよいでしょう)」と述べた、という記事が見られる。『春秋左氏伝』には亀卜や占筮に関するエピソードが多く存在するが、それらの記事では、(亀卜の)卜兆と、(占筮の)卦、また、卜兆の形につけられた占いの言葉である繇辞(ちゅうじ)と、卦爻につけられた占いの言葉である卦辞・爻辞が、それぞれ対比的な関係を見せている。
なお、元勇準は、『春秋左氏伝』における占いの記事は、春秋時代にじっさいに行われた占いの記録ではない、と述べている(元勇準『『周易』の儒教経典化研究 : 出土資料『周易』を中心に』)。包山楚簡などの占いの記録との比較から、春秋時代にはまだ周易は「代表的な占い」として確立していなかった可能性が高いにもかかわらず、『春秋左氏伝』では「権威ある書」として周易を引用しているからである。
『易』にはこれまでさまざまな解釈が行われてきたが、大別すると象数易(しょうすうえき)と義理易(ぎりえき)に分けられる。「象数易」とは卦の象形や易の数理から天地自然の法則を読み解こうとする立場であり、「義理易」とは経文から聖人が人々に示そうとした義理(倫理哲学)を明らかにしようという立場である。
漢代には天象と人事が影響し、君主の行動が天に影響して災異が起こるとする天人相関説があり、これにもとづいて易の象数から未来に起こる災異を予測する神秘主義的な象数易(漢代の易学)が隆盛した。ここで『易』はもっぱら政治に用いられ、預言書的な性格をもった。特に孟喜・京房らは戦国時代以来の五行と呼ばれる循環思想を取り込み、十二消息卦など天文律暦と易の象数とを結合させた卦気説と呼ばれる理論体系を構築した。前漢末の劉歆はこのような象数に基づく律暦思想の影響下のもと漢朝の官暦太初暦を補正した三統暦を作っており、また劉歆から始まる古文学で『易』は五経のトップとされた。
一方、魏の王弼は卦象の解釈に拘泥する「漢易」のあり方に反対し、経文が語ろうとしている真意をくみ取ろうとする「義理易」を打ち立てた。彼の注釈では『易』をもっぱら人事を取り扱うものとし、老荘思想に基づきつつ、さまざまな人間関係のなかにおいて個人が取るべき処世の知恵を見いだそうとした。彼の『易注』は南朝において学官に立てられ、唐代には『五経正義』の一つとして『周易正義』が作られた。
こうして王弼注が国家権威として認定されてゆくなかで「漢易」の系譜は途絶えた。そのなかにあって李鼎祚が漢易の諸注を集めて『周易集解』を残し、後代に漢易の一端を伝えている。
宋代になると、従来の伝ならびに漢唐訓詁学の諸注を否定する新しい経学が興った。易でもさまざまな注釈書が作られたが、「義理易」において王弼注と双璧と称される程頤の『程氏易伝』がある。また「象数易」では数理で易卦の生成原理を解こうとする『皇極経世書』や太極や陰陽五行による周敦頤の『通書』、張載の『正蒙』などがある。ここで太極図や先天図、河図洛書といった図像をが用いられ、図書先天の学という易図学が興った。南宋になると、義理易と象数易を統合しようとする動きが現れ、朱震の『漢上易伝』、朱熹の『周易本義』がある。
筮竹を操作した結果、得られる記号である卦は6本の「爻」と呼ばれる横棒(─か- -の2種類がある)によって構成されているが、これは3爻ずつのものが上下に2つ重ねて作られているとされる。この3爻の組み合わせによってできる8つの基本図像は「八卦」と呼ばれる。
『易経』は従来、占いの書であるが、易伝においては卦の象形が天地自然に由来するとされ、社会事象にまで適用された。八卦の象はさまざまな事物・事象を表すが、特に説卦伝において整理して示されており、自然現象に配当して、乾=天、坤=地、震=雷、巽=風、坎=水、離=火、艮=山、兌=沢としたり(説卦伝3)、人間社会(家族成員)に類推して乾=父、坤=母、震=長男、巽=長女、坎=中男、離=中女、艮=少男、兌=少女としたり(説卦伝10)した。一方、爻については陰陽思想により─を陽、--を陰とし、万物の相反する性質について説明した。このように戦国時代以降、儒家は陰陽思想や黄老思想を取り入れつつ天地万物の生成変化を説明する易伝を作成することで『易』の経典としての位置を確立させた。
なお八卦の順序には繋辞上伝の生成論(太極-両儀-四象-八卦)による「乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤」と説卦伝5の生成論による「乾・坤・震・巽・坎・離・艮・兌」の2通りがある。前者を伏羲先天八卦、後者を文王後天八卦と呼び、前者によって八卦を配置した図を「先天図」、後者によるものを「後天図」という。しかし、実際は11世紀の北宋の邵雍の著作『皇極経世書』において初めて伏羲先天八卦、文王後天八卦として図と結びつけられたのであり、先天諸図は邵雍の創作と推測されている。
「経」における六十四卦の並び方がどのように決定されたのかは現代では不明である。また六十四卦の卦辞や爻辞を調べる場合、「経」における六十四卦の並べ方そのままでは不便であり、六十四卦を上下にわけることで、インデックスとなる小成八卦の組み合わせによって六十四卦が整理された。その後、小成八卦自体が世界の構成要素の象徴となって、様々な意味が付与されることとなった。
具体例をしめすと、乾は以下のとおりである。
陰陽を示す横線(爻)が6本が重ねられた卦のシンボルがある。次に卦辞が続き卦の名前(乾)と卦全体の内容を様々な象徴的な言葉で説明する。 次に初九、九二、九三、九四、九五、上九(、用九)で始まる爻辞があり、シンボル中の各爻について説明する。6本線(爻)の位置を下から上に、初二三四五上という語で表し、九は陽()を表している。(陰()は六で表す。) 爻辞は卦辞と似ているが、初から上へと状況が遷移する変化をとらえた説明がされる。象徴的なストーリーと一貫した主題で説明されることも多い。乾では、陽の象徴である龍が地中から天に登るプロセスを描き判断を加えている。
一般に「占筮」といえば、『易経』に基づいて筮竹を用いて占をすることを言う(太古には「蓍」という植物の茎を乾燥させたものを使っていた。「蓍」とはキク科多年草であるノコギリソウのこと。なお、日本語で「蓍」(和名「メドギ」)は、ノコギリソウではなくてメドハギという豆科の別の植物)。この占においては、50本の筮竹を操作して卦や爻を選び定め、それによって吉凶その他を占う。「卜筮」と同義。
『易』の経文には占法に関する記述がなく、繋辞上伝に簡単に記述されているのみである。繋辞上伝をもとに唐の孔穎達『周易正義』や南宋の朱熹『周易本義』筮儀[24]によって復元の試みがなされ、現在の占いはもっぱら朱熹に依っている。
易で占うために卦を選ぶことを立卦といい、筮竹をつかう、正式な本筮法、煩雑を避けた中筮法、略筮法(三変筮法)や、コイン(擲銭法)、サイコロなどを利用する簡略化した方法も用いられる。これらによって占いを企図した時点の偶然で卦が選択され、大別すると選ばれた1爻を6回重ねる方法(本筮法、中筮法など)と、選ばれた八卦を2回重ねる方法(略筮法など)がある。さらに各方法には変爻(極まって陰陽が反転しようとしている爻)の有無や位置を選ぶ操作があり状況変化を表現する。このとき選ばれた元の卦を本卦、変化した卦を之卦という。こうして卦が得られた後、卦や変爻について易経の判断を参照し当面する課題や状態をみて解釈し占断をおこなう[25]。
朱熹の本筮法を筮竹あるいは蓍の使用に限って説明すれば以下のようである。
繋辞上伝には「四営して易を成し、十有八変して卦を成す」とあり、これを四つの営みによって一変ができ、三変で1爻が得られ、それを6回繰り返した18変で1卦が得られるとした。さらに4営は伝文にある「分かちて二と為し以て両に象る」を第1営、「一を掛け以て三に象る」を第2営、「これを揲(かぞ)うるに四を以てし以て四時に象る」を第3営、「奇を扐に帰し以て閏に象る(「奇」は残余、「扐」は指の間と解釈される)」を第4営とした。
筮竹 | 爻 | |||
---|---|---|---|---|
残余の多少 | 数の意味 | 属性 | 数 | 記号 |
三少 | 5+4+4=13 49-13=36=4*9 | 老陽 | 9 | □ (重) |
二少一多 | 5+4+8または5+8+4または9+4+4=17 49-17=32=4*8 | 少陰 | 8 | - - (折) |
二多一少 | 9+4+8または9+8+4または5+8+8=21 49-21=28=4*7 | 少陽 | 7 | ─ (単) |
三多 | 9+8+8=25 49-25=24=4*6 | 老陰 | 6 | × (交) |
上記本筮法は18変を必要とし、しかも第1変の陰陽に偏りがあるため、偏りの無い筮法として、6変筮法である中筮法がある。これは第1変第3営において天策を8本ずつ数えその残余(割り切れる場合は0本)に人策の1本を加えた1〜8本によって次のように初爻を決定する。
同様のことを6回繰り返して本卦を得る。
さらに簡略化した3変の略筮法もある。これは中筮法の第1変の結果をそのまま内卦(初爻から第3爻)とし、同様に第2変で外卦(第4爻から第6爻)を求めて本卦を得た後、第3変は6本ずつ数えて人策を加えた残余の1〜6本によって変爻の位置(1→初爻〜6→第6爻)を決定するという方法である。
また筮竹を用いずに卦を立てる占法もあり、3枚の硬貨を同時に投げて、3枚裏を老陽(□)、2枚裏・1枚表を少陰(- -)、2枚表・1枚裏を少陽(─)、3枚表を老陰(×)とする擲銭法が唐の賈公彦『儀礼正義』に記されている。これは、硬貨の表裏で本筮法の残余の多少を表すとするものであり、他に、硬貨の表裏を以て中筮法の乾兌離震巽坎艮坤を表すとして四象を決める方法や表の枚数の多少をそのまま四象に反映する方法、6枚の硬貨の表裏をそのまま陰陽として並べて本卦にする方法もある。
易卦は二進法で数を表していると解釈でき、次のように数を当てはめることができる。右側は二進法の表示であり、易卦と全く同じ並びになることが理解できる。
本筮法の第1変においては49本の筮竹を天策(x本)と地策(49-x本)に分け、地策から1本を人策として分ける。よって地策は48-x本となる。第4営後に9本残るのは天策地策ともに4本ずつ残る場合のみであり、これはxが4の倍数の時に限られる。第2変、第3変では4本残る(天地人1−2−1または2−1−1)か8本残る(同3−4−1または4−3−1)かは半々となり偏りはない。(なお、50本から太極として1本除いた49本を使うのではなく、最初に7×7=49本から太極として1本除いた48本を使うとするなら第1変の偏りはなくなる。)
ゴットフリート・ライプニッツ、先天図、八卦の記事も参考のこと。
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