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戦国時代から安土桃山時代の武将 ウィキペディアから
松平 忠吉(まつだいら ただよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。桜井松平家5代当主。三河国碧海郡桜井城主(愛知県安城市桜井町)。
松平家次の次男として誕生した。
天正5年(1577年)、当主であった兄・忠正が死去し[1]、忠正の嫡子・家広(亀千代)はまだ生まれたばかりであったため、兄の正室であった多劫姫(徳川家康の異父妹)を妻に迎えて家督を継ぐ[1]。
天正9年(1581年)の高天神城攻めに従い[1]、諏訪原に出城を築いて守るなどの軍功を挙げた[1]。高天神城攻めでの功績にを受け、桜井と東条の間で紛争となっていた400石の地が加増された[1]。のちに改めて尾張国品野で2000石の地を与えられたという[1]。
天正10年(1582年)6月24日、24歳で死去した[1]。家督は家広が継いだが[1]、家広は依然幼少であるために、忠吉の弟の忠広が後見となり、同年の甲斐攻め(天正壬午の乱)にも忠広が従っている[1]。
『寛政重修諸家譜』では子の筆頭の位置に遺跡相続者として松平家広(多劫姫と忠正の子)を置いている[1]。長男[注釈 2]の信吉は、松平信一の婿養子となって藤井松平家の家督を相続した(上野国高崎藩主、次いで丹波国篠山藩主)。また、次男[注釈 3]の忠頼は、家広の死後に家督を継いだ(武蔵国松山藩主)。
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