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松平信一

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松平信一
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松平 信一(まつだいら のぶかず)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名藤井松平家始祖・松平利長の長男。官位従四位下伊豆守。藤井松平家2代当主。松平清康の従兄弟。

概要 凡例松平信一, 時代 ...

生涯

早くから徳川家康に仕え、永禄元年(1558年)の尾張国の北東部に在った品野城への夜襲戦に加わる。ここで織田方の将士らを50余名を討ち取り、三河・尾張両国にその名を轟かせた。永禄6年(1563年)、三河一向一揆鎮圧戦でも活躍。このときの働きを、家康から賞されている。

永禄11年(1568年)、織田信長足利義昭を奉じて上洛する際に援軍の将として派遣され、9月12日観音寺城の戦いに代表される対六角氏戦で、箕作城攻めにて本丸一番乗りを果たす戦功を挙げ、信長からも賞された。

天正3年(1575年)、遠江国諏訪原の戦い長篠の戦い)に参戦[注釈 1]

天正18年(1590年)、家康の関東国替えにより、下総国布川に5000石を与えられる。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは江戸崎にて佐竹義宣の動向に備えた。その戦功により戦後、常陸国土浦藩の初代藩主となり、3万5000石の所領を与えられた。嫡男久清が既に没していたため、慶長9年(1604年)、桜井松平家から信吉を養子に迎えて家督を譲った。

寛永元年(1624年)、信吉の封地の丹波国篠山城で死去した。

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逸話

  • 永禄6年の一向宗蜂起の時、敵の鉄砲によって左股を撃たれて倒れ、これを見た敵が誇言したところ、起き上がって進んで来て、悪口(あっこう)を言い放ち、これを聞いた敵が引きしりぞいたと『寛永諸家系図伝』に記述されている。

系譜[2]

  • 父:松平利長
  • 母:不詳
  • 正室:花雲妙蓮禅定尼(-天正11(1583)年6月15日):出自不詳
  • 継室:松平好景の娘(-元和3(1617)年10月28日):法名は岳雄院殿俊誉宗貞清信大姉
  • 子女[注釈 2]
    • 長男:松平久清(-1592):法名は高翁寺殿欣誉浄喜大居士
    • 長女:大久保康忠の妻
    • 次女:石川織部某の妻
    • 三女:松平信吉の妻(-承応2(1653)年6月23日):法名は宗龍院殿源誉華雄貞信大姉
    • 四女:小栗忠政、後に門奈宗勝の妻

脚注

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