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林語堂(りん ごどう、1895年10月10日 - 1976年3月26日)は華人の文学者・言語学者・評論家。
祖父の代から続くキリスト教牧師の家に生まれた。10歳の時に廈門に出て小学校と中学校を卒業。1911年に上海に出て当時英文系大学として有名だった聖ヨハネ大学(聖約翰大学)に入学し1916年に卒業する。北京の清華大学で約3年間英語教師として働くかたわら、『中国政治経済雑誌 Chinese Social and Political Science Review 』の記者となる。1919年にアメリカに渡りハーバード大学に留学し言語学を専攻した。ついでドイツのライプツィヒ大学・イエナ大学で研究を続けPh.Dの学位を得る。1923年に帰国し、北京大学の英語学教授に就任し、魯迅など多くの文学者・学者と接触を持ち、魯迅や周作人の雑誌『語絲社』に加わり、政治論文やエッセイを書くことにより、急進的な教授の一人に数えられた。
1926年に軍閥政府により弾圧されて、北京を逃れて廈門大学の文科主任となり魯迅や顧頡剛などを招聘したが、大学の腐敗にたえかねて1年後に辞任。1927年には武漢の国民政府に入り、外交部長・陳友仁の秘書となり、英文雑誌『 The China Critic (中国評論週報)』などにその論陣を張った。武漢政府が崩壊した後は上海に出て1930年に中央研究院国際出版物交換所の所長となった他は、政治的活動から遠のいている。
1932年から1936年にかけ『論語』『人閒世』『宇宙風』などの雑誌をつぎつぎに発行し、文学・政治・教育・言語・婦人問題・芸術とさまざまな分野に私見を述べ、諷刺とユーモアがこめられた小品文を流行させ、「幽默(ユーモア)大師」と称された。1935年に中国と中国人の性格・文化を解説した『わが国土・わが国民』をアメリカで出版し、世界的な名声を得て、翌年からアメリカに移住する。
1937年に『生活の発見』、1938年には代表作『京華煙雲 Moment in Peking (北京好日)』、1941年には『A Leaf in the Storm』を出版し、おもに日本の中国侵略に抗議する作品を発表していた。1947年からユネスコ芸術部長として3年間パリに住み、1954年には一時的にシンガポールの南洋大学総長に就任。1966年には友人の懇請により、台湾に移住し台北の陽明山に居を構え、娘の住む香港との間を往来し旺盛な活動を続け、香港に没する。遺体が台北の旧居の庭に葬られた。
1930年代には中国語の小型タイプライターを開発した。このタイプライターは従来の中国語のタイプライターと異なり漢字そのものを入力せず部首や筆画を入力する構造になっているため、キーの数が少なくなっている[1]。
1940年と1950年、1970年、1972年、1973年の5回、ノーベル文学賞候補にノミネートされたが[2][3]、いずれも受賞を逃した。
河村昌子の研究[4]で、著名な論者によっても評価が分かれていることが明らかにされている。
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