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明治・大正期の臨済宗の僧 ウィキペディアから
釈 宗演(しゃく そうえん、安政6年12月18日(1860年1月10日) - 大正8年(1919年)11月1日)は、明治・大正期の臨済宗の僧。若狭国(現・福井県)大飯郡高浜村(現在の高浜町)の生まれ。出家前は一瀬常次郎。号は洪嶽、楞伽窟、不可往。
1860年1月10日(旧暦 安政6年12月18日)、現在の福井県大飯郡高浜町の農家に生まれた[2]。一瀬吾右衛門の二男で、幼名は常次郎。幼児から峻烈豪放で、人に下るということを好まなかった[2]。
1870年、10歳(数え年で12歳)の時、一瀬家の親戚筋に当たり福井県出身である京都妙心寺天授院の越渓守謙が帰郷し、越渓の母の92歳の祝いを終えて京都に帰る際、兄の勧めにより、常次郎は僧侶になるべく越渓に預けられた[注釈 2]。
常次郎は越渓のもとで得度した。越渓はその頃、天授院に僧堂を開単した頃であった。妙心寺山内に「般若林」という学林ができたため、そこに通って漢籍や禅籍の素読などを学んだと伝わる。
1873年、建仁寺塔頭の両足院の千葉俊崖師に就き、学問と修行に励む。ここで後に建仁寺派管長となる竹田黙雷と知り合う。その後黙雷とは知友となる。しかし1875年に俊崖師が遷化して建仁寺山内の「群玉林」での学林生活は終わった。
1876年、師匠の越渓の命令で愛媛県八幡浜の大法寺に行き、越渓の法嗣弟子西山禾山について修行をするが、僅かな日数で挫折して、その後、越渓の許可を得て滋賀県三井寺の中川大宝律師に就き倶舎論を研究する。この三井寺での勉学中に、当時阪上真浄(後の臨済宗大学初代学長)が住職をしていた、永雲寺(大徳寺派)に1年ほど滞在した。その縁もあり、後に宗演は臨済宗大学(後の花園大学)第二代学長となった。
1877年、再び越渓の命を受けて、備前岡山の名刹・曹源寺の儀山善来に就き修禅することとなった[3]。儀山善来は、宗演の得度師匠である越渓守謙、そして円覚寺で替わって師匠となった今北洪川の二人の師匠でもあった。宗演が師事した頃、既に儀山善来は76歳の老境であったが、提唱および参禅の指導を受けたのである。
1878年、宗演は秋に鎌倉円覚寺の今北洪川に参じて修行。それから5年後の1883年、洪川は宗演に「若の演禅士、力を参学に用いること久し。既に余の室内の大事を尽くす、乃ち偈を投じて、長時苦屈の情を伸暢す。老僧、祝著に勝えず。其の韻を用いて即ち証明の意を示す」と題した印可証明の偈をおくっている。宗演が満23歳の時である。
1884年、宗演は鎌倉円覚寺内にある北条時宗公を祀る塔頭寺院、仏日庵の住職となり、神奈川県横浜市永田にある寶林寺で『禅海一瀾』を提唱した。
1885年、慶應義塾に入った。慶應へ行くことに洪川は反対したが、鳥尾得庵等の助けもあり、なんとか入学した。ここで福沢諭吉とも緑が出来、親交は長く続くこととなった。
1887年、慶應義塾別科で学んだあと、セイロン(現在のスリランカ)に行って仏教の原典を学ぼうとした。当時のセイロン行きは文字通りの命がけであった。これにも洪川は猛反対したが、山岡鉄舟や福沢諭吉等の助けもあり、セイロン行きを敢行した。渡航に関して、福沢諭吉からは「汝道に志す、よろしくセイロンに渡航して源流を遡るべく、志や翻すべからず」と勧められ、山岡鉄舟には「和尚の目は鋭過ぎる、もっと馬鹿にならねばいかん」と言われた。そして1887年3月31日、コロンボに到着。パーリ語を学び、僧院で修行し、同年5月7日に沙弥として出家。パンニャーケートゥの法名をもらい、セイロンの袈裟に着替え、1889年10月に帰国した。 セイロン滞在中の1889年に『西南之仏教』を刊行。そのなかで北方仏教と南方仏教という二分法を、東北仏教と西南仏教、さらに小乗仏教と大乗仏教と言い換えた[4]。セイロン、シャム、ビルマ、カンボジアを小乗、支那、朝鮮、蒙古、満洲、韃靼、西蔵等を大乗仏教としている。
1889年、帰国後に永田寶林寺道場に於いて、初めて師家として修禅者を指導する[3]。
1892年1月16日に師匠の今北洪川が遷化。これに伴い、宗演は塔頭仏日庵住職を辞して円覚寺に住し、円覚寺派の公選により、満32歳の若さで円覚寺派管長並びに円覚寺派専門道場師家に就任する。
シカゴ万国博覧会 (1893年)の一環として開催された万国宗教会議に臨済宗の代表として出席することになり、福沢諭吉の賛助も得て、無事に資金も調達して8月に横浜を発ち、十数日の船旅でバンクーバー (ワシントン州)に到着した。会議は9月11日から17日間行われた。宗演は2回にわたり演説し、第1回の演説は「仏教の要旨並びに因果法」と題して、仏陀の教えの基本は因果の法であると説いた。宗演の演説を聞いた著名な仏教学者、ポール・ケーラス(アメリカの哲学者で仏教研究家)が深く感銘を受けたことが縁となり、宗演が帰国した後にケーラスは「英語に堪能な者を派遣して欲しい」と依頼した。そこで宗演は修行していた居士の鈴木大拙を渡米させた。大拙はその後、ケーラスの下で翻訳等の仕事を手伝うことになった。
1902年、シカゴ万国宗教会議において通訳を務めた野村洋三の紹介によって、サンフランシスコの実業家アレクサンダー・ラッセルの妻アイダ[5]と、その友人ら一行が円覚寺を訪ね、山内の正伝庵に滞在しながら宗演に参禅することとなった。外国人が来日して参禅するのはこれが初といわれる。帰国するまでの間、一行は熱心に参禅したという。翌年の1903年には、建長寺派全派の要請により管長を兼務することとなる。1904年、日露戦争が勃発。宗演は建長寺派管長の資格を以て第一師団司令部に従属し、満州に従軍布教をなす。
1905年、円覚寺派管長職と建長寺派管長職を共に辞して、鎌倉の円覚寺派の東慶寺の住職となる。この時、円覚寺派の管長に就任したのは、宗演の円覚寺修行時代の兄弟子である宮路宗海(相国寺・荻野独園の法嗣)であった。宗演は、以前来日して宗演に参禅していたアイダ・ラッセルの勧めもあり、6月に通訳として鈴木大拙、侍者として千崎如幻を伴い再び渡米した。サンフランシスコのラッセル邸に約9ヶ月滞在し、禅の指導をすることになった。アイダは禅の実践を学んだ初めてのアメリカ人となった[6]。
1906年、サンフランシスコで新年を迎え、その後、代理公使日置益とともにワシントンでルーズベルト大統領と会見[7]。鈴木大拙の通訳を介し、世界平和について語り合ったといわれる。そしてアメリカからの帰りには足を延ばし、ロンドンでは大倉組の門野重九郎に会い、ほか欧州各都市、スリランカ、インドなどアジアを歴訪し、香港にも立ち寄って、翌年の1906年8月に帰国した。同年11月には、徳富蘇峰、野田大塊、早川雪堂らによって「碧巌会」が結成され、多くの名士が毎月、宗演の碧巌録提唱に聞き入った。
1911年、朝鮮を約1ヶ月巡錫、翌年には満洲を巡錫、さらに1913年には台湾を巡錫した。1914年、臨済宗大学(後の花園大学)第二代学長に就任。1917年まで学長を務めた。
1916年、円覚寺派管長に再び選ばれた。この時は法嗣弟子の古川堯道を僧堂師家に任じて、自らは管長職のみ務めた。同年10月、『碧巌録』を講了したので碧巌会を閉じた。12月9日には弟子である夏目漱石の葬儀の導師を引き受けた。戒名も宗演が授けている。1917年には中華民国を約3ヶ月にわたって巡錫した。
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