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伊沢修二

日本の教育者・官僚 ウィキペディアから

伊沢修二
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伊沢 修二(いさわ しゅうじ、旧字体:伊澤1851年7月27日嘉永4年6月29日) - 1917年大正6年)5月3日)は、日本教育者文部官僚[4]。近代日本の音楽教育吃音矯正の第一人者である。楽石

概要 伊沢(いさわ) 修二(しゅうじ), 誕生 ...
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概要 貴族院議員, 選挙区 ...
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生涯

要約
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生家(長野県伊那市)

信濃国高遠城下(現在の長野県伊那市高遠町)に高遠藩士の父・勝三郎、母・多計の子として生まれる。幼名は八弥。父は20俵2人扶持の低禄の下級武士のため極端な貧乏暮らしだった(事実上1年4人で分け与えなけければならないこととなっている)。

1861年文久1年)から藩校進徳館で学び、1867年慶応3年)に江戸へ出府。ジョン万次郎に英語を学ぶ[5]。万次郎が欧米に出張すると、1869年(明治2年)に築地に転居したアメリカ合衆国長老教会宣教師カラゾルスから英語を学ぶ[注釈 1]

京都へも遊学して蘭学などを学ぶ。同年には藩の貢進生として大学南校(のちの東京大学)に進学する。

1872年(明治5年)には文部省へ出仕し、のちに工部省へ移る。1874年(明治7年)に再び文部省にもどって愛知師範学校校長となる。3月、同校付属幼稚園で、日本の童謡をつかって遊戯唱歌を始める[6]。1875年(明治8年)7月18日には師範学校教育調査のために、神津専三郎高嶺秀夫アメリカ合衆国へ留学、マサチューセッツ州ブリッジウォーター師範学校英語版で学び、同時にグラハム・ベルから視話術を、ルーサー・メーソンから音楽教育を学ぶ。同年10月にはハーバード大学で理化学を学び、地質研究なども行う。聾唖教育も研究する。1878年(明治11年)5月に帰国。

1879年(明治12年)3月には東京師範学校(現在の筑波大学)の校長となり、音楽取調掛に任命されるとメーソンを招く。来日したメーソンと協力して西洋音楽を日本へ移植し、『小學唱歌集』を編纂。田中不二麿が創設した体操伝習所の主幹に命じられる。1879年10月に、文部卿寺島宗則に、「音楽取調ニ付見込書」を提出した。1886年(明治19年)3月、文部省編輯局長に就任。1888年(明治21年)には東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)、東京盲唖学校(現在の筑波大学附属視覚特別支援学校)の校長となり、国家教育社を創設して忠君愛国主義の国家教育を主張、教育勅語の普及にも努める。

内閣制度が発足し、1885年(明治18年)に森有礼文部大臣に就任すると、教科書の編纂などに務める。1890年(明治23年)5月30日に国家教育社を組織して国家主義教育の実施を唱導し10月12日『国家教育』を創刊し、翌年に文部省を非職となってからは更に国立教育運動に力を注いだ。その後、1892年(明治25年)8月に国立教育期成同盟を結成して小学校教育費国庫補助運動を開始する。1894年(明治27年)の日清戦争後に日本が台湾を領有すると、台湾へ渡り台湾総督府民政局学務部長心得に就任、統治教育の先頭に立っている。1895年(明治28年)6月に、台北北部の芝山巌(しざんがん)に小学校「芝山巌学堂」を設立。翌1896年(明治29年)1月、伊沢が帰国中に、日本に抵抗する武装勢力に同校が襲撃され、6名の教員が殺害される事件が発生した(芝山巌事件)。

1897年(明治30年)には貴族院勅選議員。晩年は高等教育会議議員を務めたほか、吃音矯正事業に務め、1903年に楽石社を創設。1917年、脳出血のため67歳で死去[7]

墓所は雑司ヶ谷霊園

祝日大祭日唱歌「紀元節」や唱歌「皇御国」「来たれや来たれ(皇国の守)」などを作曲。『生物原始論』を翻訳し、進化論を紹介する。著作に『教育学』、『小学唱歌』、『学校管理法』ほか。

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エピソード

  • 留学中にアレクサンダー・グラハム・ベル電話を発明したことを聞きつけ金子堅太郎と共にボストンにあった下宿先を訪問した。グラハム・ベルは電話の実用化に向けてスポンサーを探しており、外国人が興味を持ったことを喜んで2人に通話を体験させた。金子の回想によると英語以外の通話としてもこれが初だと説明を受けたという。
  • 芝山巌学堂の場所には、芝山巌事件で殉職した日本人教師6名を指す「六氏先生」を追悼して、伊藤博文揮毫による「学務官僚遭難之碑」が建立された。戦後、台湾が中国国民党政府に接収されると石碑は倒され、長く放置されていたが、台湾の民主化後、民進党陳水扁台北市長時代に復元された。
  • 国語清音法・吃音矯正法の教師育成に尽力した。伊沢の没後もこれらの教師が、国内のみでなく、楽石社を通じて朝鮮台湾ハワイからの希望者を指導した。
  • 「Hänschen klein」は、米国では「Lightly Row」という表題でドイツの歌詞とは無関係にボートを漕ぐ様子を歌った曲になり、19世紀前半には広く知られる童謡となっていた。1875年(明治8年)から1878年(明治11年)まで米国へ留学した際、ブリッジウォーター師範学校(英語版)でルーサー・メーソン(1818年 - 1896年)よりこの曲を教わり、日本へ紹介したのではないかと推測されている。結果、代表的な日本唱歌の1つである蝶々のメロディとなった。
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親族

栄典・授章・授賞

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1899年頃の肖像
位階
勲章等
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著作

著書
訳書
編書
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脚注

参考文献

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関連文献

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外部リンク

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