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千葉県栄町にある寺院 ウィキペディアから
龍角寺(りゅうかくじ)は、千葉県印旛郡栄町龍角寺にある天台宗の寺院。天竺山寂光院と号し、本尊は薬師如来。
『佐倉風土記』によれば、
和銅2年(709年)竜女が現れ、金の薬師如来像を祀ったのが創建と伝わり、天平2年(730年)釈命上人が諸堂宇を再興したとされる。翌天平3年(731年)国中が旱魃となった時、釈命上人は勅を奉じ法を説き雨を祈った。すると身の丈8尺ばかりの老人が進み出て、わたしは印旛沼にいる小龍ですが、深く上人の法沢に浴しております。どうしてわが身を惜しんだりいたしましょう。どうか、身を以って雨に換えさせてください。のち、わたしの死骸を目にするでしょうが、それは大龍に罰せられたのです、といって立ち去った。雨がすぐに降り出した。そして、7日後、3つに裂かれた龍の姿が目にはいった。大龍の許しを受けずに雨を降らせたため、小龍は3つに裂かれてしまったのである。その頭の部分はこの地に落ち、金字で経を写し一緒に堂下に埋め、龍角寺と改称したという。また、龍の腹が落ちた地の寺が龍腹寺(千葉県印西市竜腹寺)、尾が落ちた地の寺は龍尾寺(千葉県匝瑳市大寺)という名前になったという[注 1][1]。
『佐倉風土記』の伝える上記の草創伝承の当否とは別に、当地には古代から仏教寺院が存在したことは間違いない。発掘調査によって、南大門から入り、中門を抜け、左手に金堂、右手に塔、そしてその奥に講堂が配されるという、いわゆる「法起寺式伽藍配置」の遺構が検出され、創建瓦は周縁に三重園文のある単弁八葉蓮華文の山田寺式の系譜を持つ軒丸瓦である。関東でもいくつかの寺院跡で山田寺式の軒丸瓦が出土しているが、その中でも最も古い様式をもっており、おそらくその年代は7世紀後半でも古い段階に位置づけることができよう[2]。
寺の南には、最後の前方後円墳といわれる浅間山古墳や、畿内の大王陵を凌駕する終末期最大の方墳龍角寺岩屋古墳などがあり[3]、馬来田の上総大寺廃寺(千葉県木更津市)、武社の真行寺廃寺(同山武市)、上毛野の山王廃寺(群馬県前橋市)などとともに[注 2]、国造制から律令制への移行段階に建立された印波国造の領域の初期寺院とされ、畿内以外では最古にあたる寺院と考えられている[2]。
龍角寺岩屋古墳は典型的な畿内型の終末期古墳であり、畿内中枢との密接的な関係なしに理解できないという。方墳は用明天皇陵の春日向山古墳や、推古天皇陵である山田高塚古墳をはじめ、蘇我馬子の墓の可能性の高い石舞台古墳といったように、蘇我氏関係の墳墓に採用されていること、さらに規模においてはそれらを凌駕しており、蘇我氏がその造営に深く係っていたと推測される。そして龍角寺の創建瓦も蘇我一族の蘇我倉山田石川麻呂によって創建された山田寺式の瓦を採用していることから、龍角寺の造立者は龍角寺岩屋古墳の被葬者の系譜下にあり、蘇我氏系の氏族であったとする見解もある[2]。
寺は中世には衰微していたらしく、承久2年(1220年)上総介平常秀が再建、文明年間(1469年-1486年)、永正年間(1504年-1520年)などに焼失を繰り返し、千葉勝胤が再興したという[4]。
戦国時代には千葉氏の外護を受け、天正年間(1573年-1593年)には千葉邦胤が修造したと伝える。天正19年(1591年)には徳川家康より20石を与えられている[4]。
度重なる火災により古い建物は残っておらず、金堂跡、仁王門跡、塔跡などにより、在りし日の姿をしのぶことができるのみとなっている。
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