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あのねのね

日本のフォークデュオ (1973-) ウィキペディアから

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あのねのねは、日本のフォークデュオ

概要 あのねのね, 別名 ...

主に1970年代中期から1980年代初頭にかけて活動した。

略歴

要約
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開校間もない頃の京都産業大学の学生だった清水国明原田伸郎を中心に結成された。結成当初は4~6人編成で、うち2人は笑福亭鶴瓶とその後鶴瓶の妻になる女性であった。デビューまでに清水と原田とのコンビとなった。なお、大学の同級生に、シンガーソングライターとなった中村行延もいる。

原田によれば、元々は原田と大学の同期生で落語研究会仲間でもあった鶴瓶から旅館のアルバイトを紹介され(鶴瓶が辞めた後釜)、そこで働いていた先輩の清水と意気投合したのが結成のきっかけだという[1]

フォークソングムーブメント末期の1973年、『赤とんぼの唄』でメジャーデビューした。

「赤とんぼの唄」「魚屋のオッサンの唄」などの比較的ブラックなコミックソングの印象が強く、ライブではコミカルなトークも人気を博し、ラジオ番組のパーソナリティやテレビ番組の司会などでも活動した。一方で「雪が降っています」などのスローナンバーも残している。

「嫁ぐ朝に」は、コミックソングの要素は一切なく、結婚披露宴の余興でよく歌われ、新郎新婦(特に新婦)やその両親の涙を誘う感動的な名曲である。

「つくばねの唄」は、落語欣弥め』を下地にしているが、サビの歌詞がかなり卑猥であるため“放送禁止用語の歌”といわれた。その英語バージョンの“THE SAMURAI”もある。

「そのねのね」という変名でシングル「愛の調べ」とアルバム「そのねのね ファースト・ラスト・アルバム」をリリースしたこともある。こちらはすぎやまこういちらによるシリアス路線だった。

1974年9月にKKベストセラーズから出版した『あのねのね 今だから愛される本』は、65万部を売り上げ[2]、タレントの書いた本としては異例の大ヒットで人気を拡大させた[2]。同著書は当時話題を呼んだゴーストライターではなく[2]、あのねのね自身が公演先の旅館やテレビ局の楽屋で書き綴ったエッセイで[2]、あのねのねの手元には印税が3,600万円が振り込まれた[2]。この大ヒットをきっかけに各出版社がタレント本を大挙出し[2]、芸能界にタレント本ブームが起きた[2]

1975年には学業に専念するためライブメインの活動を休止し、同時に『あのねのねのオールナイトニッポン』のパーソナリティも一時降板している。直前に東京・蔵前国技館で千秋楽コンサートを行った。ライブ活動は休止したものの、河島英五作の「青春旅情」を同年リリースし、「ヤンヤン歌うスタジオ」や「ものまね王座決定戦」などのバラエティ番組へ進出した。

その後、音楽活動の再開後は、「ネコ・ニャンニャンニャン」「みかんの心ぼし」がヒットする。

1980年代後半以降は個々での活動が中心で、コンビとしての活動はとくに行っていないが、2人がテレビやラジオで共演する機会は多く、1998年に「オールナイトニッポンDX」の企画で日本武道館内の会議室でライブを実施した (実際は武道館内で行う予定だったが、リスナーからの募金で使用料を集めたため、予算内に借りられる会議室でのライブとなった)。

2001年に新作シングル「この場所で光を」「愛メール」、オリジナルアルバム「II」、セルフカバーアルバム「せるふかばあ-ANONENONE BEST-」をリリースし、2003年には「結成30周年記念ライブ」を行っている。また、2011年には「TBC夏まつり」でライブを再開した。

楽曲にある犀泪弾(さいるいだん)とは清水国明のペンネームであり、鹿王院嵐山(ろくおういんらんざん)は原田伸郎のペンネームである。

2023年、デビュー50周年に向けたライブを日本各地で開催。集大成の記念コンサートのチケットは完売になるなど話題となった[3]

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主な弟子など

清水の弟子
原田の弟子
その他

主な出演作品

バラエティ番組

テレビドラマ

ラジオ

映画

CM

ディスコグラフィ

要約
視点

シングル

さらに見る 発売日, 規格 ...

アルバム

さらに見る 発売日, タイトル ...
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書籍

  1. あのねのね 今だから愛される本(1974年9月、KKベストセラーズ)
  2. 帰ってきたあのねのね 今だから愛される本 (1976年、KKベストセラーズ)
  3. あのねのねのどっちがアホか 今だから笑われる本(1978年12月、KKベストセラーズ)
  4. あのねのねのいまギャグ感覚 入門・珍詩作講座(1981年5月、KKベストセラーズ)

エピソード

  • 弟子ではないが小室哲哉河島英五がかつてバックバンドを担当していたことでも知られており、河島があのねのねの前座をつとめたことがある。また、一時期同じ事務所でもあり、河島が1年先に入っていた。
  • 嘉門タツオ石橋貴明とんねるず)も弟子ではなかったものの両者とも清水国明の自宅に居候していたことがあり、あのねのねも嘉門の元所属事務所であった代官山プロダクションに業務提携扱いで所属していたことがある。

脚注

関連項目

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