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お印
日本の皇族が身の回りの品などに用いる徽章・シンボルマーク ウィキペディアから
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起源
起源は一般的には江戸時代後期、光格天皇の皇子・皇女らが用いたものとされているが、「内々のしきたりで記録にも残されない。正直言って詳しいことは分からない。」と宮内庁書陵部は発表している[2]。明治時代以降、宮廷内で広く用いられるようになった。皇室典範など法令上の明確な規定はなく、慣例として行われてきた制度である。皇族に仕える者たちが、皇族の名前や称号を書くことは恐れ多いと考え、お印を使うようになったともいわれる[3]。もともとは女性の間で始まったという説もある[4]。
実例

祥子妃の五衣は、紅梅の襲色目[5]。唐衣は白地に、紅梅色で徳川家の家紋:三つ葉葵が配されている[5]。
親王、内親王、王、女王の場合は命名の儀において、内親王と女王をのぞく親王妃、王妃の場合は皇族男子との結婚時に定められる。圧倒的に植物にまつわるものが多いが、そうでない者もいる。決めるのは母あるいは祖母が多いとされるが[3]父母・祖父母や結婚する夫妻などの合議で決めている例も多い[6]。図案については、皇后雅子の場合は東京芸術大学名誉教授の吉田左源二が図案化を担当したと報じられ[7]、外注されている例もある。
また、親兄弟と関連性を持たせたお印も多く、大正天皇の4皇子は全員「若○」の形式であり、三笠宮崇仁親王の子女は全員「木へん」が共通している(なお、名前も全員「ウ冠」が共通)。
単に徽章としてのみならず、宮家を創設した場合の紋や祝賀行事の際のボンボニエールに、お印の意匠が用いられるなど、その人の象徴として用いられている。実際に身の回りのものに刻印されることは少なく、旅行時の荷物の識別のため、タグに「はまなす」など、お印の名前を文字で書き込むことがある[4]。
また、1935年(昭和10年)4月に北白川宮永久王が徳川祥子と結婚した際には、ボンボニエールにそれぞれのお印の意匠を用いたのみならず、祥子のお印「紅梅」に因み、結婚の儀で着用した五衣や唐衣は、紅梅の配色(襲の色目)となっている。ただし、この当時9歳であった昭和天皇の第一皇女成子内親王も紅梅をお印としており、同時代に重複していた例となる。なお後年、成子内親王が盛厚王と結婚後皇籍離脱し、36歳で早世した際には、その墓所には成子のお印の紅梅と、夫盛厚のお印の松が植えられている[8]。
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菊花を初代当主の文仁親王のお印:栂で囲む
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脚注
参考文献
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