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アンソニー・クイン
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アンソニー・クイン(英: Anthony Quinn, 1915年4月21日 - 2001年6月3日)は、メキシコ系アメリカ人[1]の俳優、画家、作家である。野性的な役柄でさまざまな国籍の人物を演じ、1950年代と1960年代を中心に国際的に活躍した[2]。
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来歴
要約
視点
生い立ち
メキシコ・チワワ州チワワでアントニオ・ルドルフォ・クイン・オアハカ(Antonio Rudolfo Quinn Oaxaca)として生まれた。父はアイルランド系メキシコ人[3]、母がアステカ族系メキシコ人[4]。
少年時代にカリフォルニア州ロサンゼルスに移住。早く父親を亡くし、クインは俳優になる前には靴磨きやプロボクサーのスパーリング・パートナーや画家など転々とする。
演劇活動
クインの俳優としての経歴は、1936年にデビュー作の『Parole』や『The Milky Way』を含む幾つかの作品に出演したことから始まる。短期間の劇場出演の後、セシル・B・デミルの目にとまり、1940年代にパラマウント映画の幾つかの作品で様々な人種の悪人を演じることを依頼された。
デミルの養女キャサリン・デミルと結婚するが人脈は通用せず出世にはつながらず、舞い込む役は大抵悪役で、それも、ほんの僅かな時間登場して即殺される役ばかりだった。
1947年には彼は50本以上の作品でインディアン、マフィアのドン、ハワイの酋長、中国人ゲリラ、など様々な役を演じたが、大物俳優ではなかった。彼は劇場に戻り、ブロードウェーで3年間を過ごし、『欲望という名の電車』のスタンリー・コワルスキー役などを務めている。
1952年の『革命児サパタ』でサパタの兄役を演じたあたりから次第に評価が高まり、1956年の『炎の人ゴッホ』でゴーギャンを演じてアカデミー助演男優賞を受賞し、ようやくキャリアが上向くようになる。また、1986年にはゴールデングローブ賞の生涯功労賞(セシル・B・デミル賞)を受賞している。
また、『アラビアのロレンス』でのアウダ・アブー・ターイー、『ザ・メッセージ』のハムザ・イブン・アブド・アル=ムッタリブ、『砂漠のライオン』ではオマル・モフタールといった、実在した歴史上のアラブ人を演じた。
一方で、1969年の『サンタ・ビットリアの秘密』では脳天気な酔いどれ市長を演じた他、1970年代以降は性格俳優としても開眼した。晩年はテレビ作品にも多数主演し、中でも異色SFドラマ『スター・レジェンド』や20世紀のギリシャの豪商の生涯を描いた大河作品『海運王オナシス』、神話をモチーフにした娯楽ファンタジー『勇者ヘラクレス』シリーズでは全能の神ゼウスを演じた。映画でも脇役ながら出演を続け、『リベンジ』や『雲の中で散歩』などの作品では、幅広い年齢層のファンを多く獲得し続けた。
ゲーリー・クーパー、ヘンリー・フォンダ、エロール・フリン、ジョン・ウェイン、ビング・クロスビー、ボブ・ホープ、ロバート・テイラー、グレゴリー・ペック、マーロン・ブランド、カーク・ダグラス、デヴィッド・ニーヴン等々の大スターと互角に張り合い名声を高めていった。
尚、「海賊」から20年後Technicolor&VistaVisionによるリメイク「大海賊」(1958)は同じデミル監督でクランクインしたが病気で倒れ途中からクインが監督代行を務め本編もポスターも<アンソニー・マン監督>とクレジットされている。
家族
クイン自身は3回結婚して子供が13人[要出典]いる。息子のフランチェスコ、ロレンツォ、アレックス、娘のヴァレンチナは俳優になった。また、末子であるライアン・ニコラス(1996年7月5日生まれ)は81歳のときに生まれている。2011年、フランチェスコはジョギング中に心臓発作で亡くなった。
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ギャラリー
主な出演作
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受賞歴
アカデミー賞
- ノミネート
- 1958年 アカデミー主演男優賞:『野性の息吹き』
- 1965年 アカデミー主演男優賞:『その男ゾルバ』
英国アカデミー賞
ゴールデングローブ賞
- 受賞
- 1987年 セシル・B・デミル賞
- ノミネート
- 1957年 助演男優賞:『炎の人ゴッホ』
- 1963年 主演男優賞 (ドラマ部門):『アラビアのロレンス』
- 1965年 主演男優賞 (ドラマ部門):『その男ゾルバ』
- 1970年 主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門):『サンタ・ビットリアの秘密』
- 1997年 助演男優賞 (テレビシリーズ部門):『Gotti』
脚注
外部リンク
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