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エルマー・フリック
アメリカ合衆国の野球選手 (1876-1971) ウィキペディアから
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エルマー・ハリソン・フリック(Elmer Harrison Flick、1876年1月11日 - 1971年1月9日) は、アメリカ合衆国オハイオ州ベッドフォード出身のプロ野球選手(外野手)。右投げ左打ち。
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経歴
1898年フィリーズに入団。それまで外野のレギュラーであったサム・トンプソンが負傷で出場できなくなった穴埋めとして、フィリーズの外野を任される。フリックは打率.302、81打点、三塁打13本と活躍し、「フィリーズで最も有望な若手の一人」と賞賛される。1900年にはリーグ最多の110打点を上げ、打率.367を記録した。
フィリーズには1901年まで在籍し、翌1902年に創設して間もないアメリカンリーグへ移り、同じフィラデルフィアを本拠地にしたアスレチックスに所属する。ところがフィリーズが、州の裁判所命令をたてにこの移籍の無効を訴え、結局アスレチックスでは11試合にしか出場できず、チームメイトだったナップ・ラジョイらと共にクリーブランド・ナップスと再契約することになった。
以後引退する1910年まで、ナップスの外野として活躍する。1904年と1906年に盗塁王となり、1905年には首位打者を獲得する。この年のフリックの打率は.308で、これは後年、1968年にカール・ヤストレムスキーが首位打者になった時の打率(.301) に次ぐ、リーグ史上2番目の低さだった。また1905年から3年続けてリーグ最多の三塁打を放っている。1907年のオフには、当時21歳だったタイ・カッブとのトレードの話が持ち上がったものの、これを球団が断ったほどの活躍ぶりだった。
ところが1908年にフリックは胃炎を患い、同年以降はフルシーズンでの出場ができなくなってしまった。1910年を最後にメジャーから降格、以後2年間マイナーリーグでプレーした後引退した。
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詳細情報
年度別打撃成績
- 「-」は公式記録なし。
- 太字はリーグ1位。
タイトル
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関連項目
外部リンク
- Baseballhalloffame.org – アメリカ野球殿堂(National Baseball Hall of Fame)による紹介
- 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)
- 年度別成績 (Retrosheet)
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