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ナップ・ラジョイ

アメリカ合衆国の野球選手 (1874-1959) ウィキペディアから

ナップ・ラジョイ
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ナポレオン・ラジョイNapoleon Lajoie1874年9月5日 - 1959年2月7日)は、アメリカ合衆国ロードアイランド州ウーンソケット出身のプロ野球選手二塁手一塁手)。右投右打。

概要 基本情報, 国籍 ...

1900年代から1910年代にメジャーリーグベースボールで活躍し、20世紀初の三冠王。日本のメディアではラジョイと表記される事が多いが、実際はラジャウェイ/ˈlæʒəweɪ/;と呼ばれている。

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経歴

要約
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1874年9月5日ロードアイランド州ウーンソケットで、8人兄弟の末っ子として生まれた。父はフランス系カナダ人でアメリカに移民しており、バーモント州ラトランドに定住したが、その後ウーンソケットに移った。

父を幼少期に亡くしており、兄弟とともに家族を支えるため働くため 学校を中退。

同時に地元ウーンソケットのセミプロ野球チームにも所属し、両親が野球をすることを認めていなかったため「サンディ」という偽名を使ってプレーをしていた。 

ラジョイの野球の才能の噂が広まると、1試合2ドルから5ドルで他のセミプロチームに助っ人として雇われるようになる。

1896年にニューイングランドリーグのフォールリバー・インディアンズに入団。センター、ファースト、キャッチャーとしてプレーし、80試合で163安打 打率.429 長打率.726を記録。

同年8月9日にチームメイトのフィル・ガイヤーとともにフィラデルフィア・フィリーズと契約。他にもピッツバーグ・パイレーツボストン・ビーンイーターズからもスカウトされていた[1]

3年目の1898年から二塁手として活躍。まだ強引な選手引き抜きが多かった時期に、同じフィラデルフィアアメリカンリーグの球団としてアスレチックスが誕生し、オーナー兼監督のコニー・マックがラジョイと4年2万4000ドルの契約を強引に結び、フィラデルフィア・アスレチックスに移籍した。これは前年のシーズン終了後にフィリーズとの契約更改で年俸2500ドルのラジョイの要求をフィリーズが拒んだため、そこへコニー・マックから破格の金額提示を受けての移籍とされている。

しかしそれに激怒したフィリーズは契約の無効を裁判所に訴えたが、1901年のシーズン中には判決が下りなかったため、この年はフィラデルフィア・アスレチックスでプレーした。

この年にラジョイは打率.426、145得点、232安打、125打点、14本塁打の5項目全てでアメリカンリーグのトップとなった。アメリカンリーグがメジャーリーグ宣言した1901年に近代野球が始まったとすればこれが最初の三冠王である。

1902年のシーズンが開幕してから、ペンシルベニア州の裁判所がアスレチックスとの契約を無効としてラジョイにフィリーズに戻る判決を下した。ここでアメリカンリーグのジョンソン会長とアスレチックスのコニー・マック監督は事態を収拾させるため、アスレチックスとの契約をクリーブランド・ブロンコスに譲渡させ、フィリーズも提訴を取り下げて、この年からクリーブランドでプレーすることになった。そして球団は愛称をブロンコスからラジョイに因んでクリーブランド・ナップスと改称した。

ここからラジョイのクリーブランドにおける活躍が始まった。特に1905年から1916年までの11年間は球聖タイ・カッブとは同じアメリカンリーグでしのぎを削った。

1910年首位打者争いは非常に有名であり、シーズン最終日時点でカッブが509打数196安打で打率.385に対し、ラジョイは打率.376と9厘差。首位打者を確信したカッブは試合を欠場。しかし、ラジョイはセントルイス・ブラウンズ(現:ボルチモア・オリオールズ)戦のダブルヘッダーで9打数8安打(最終591打数227安打で打率.384)、遊撃手失策とされた1打が安打になっていれば逆転で首位打者というところまで迫った。ところがそのうちの7本は三塁へのバント安打で、これは相手チームのセントルイス・ブラウンズの監督ジャック・オコナーが当時人気の高かったラジョイにタイトルを勝ち取らせるために、三塁手に「後ろに下がってプレーしろ」と命じた結果のものだった。しかし、露骨なシフトだったためこの八百長が発覚し、結局、公式な首位打者はカッブとなったものの、首位打者に贈られる賞品のマックスウェル・チャルマーズ社の車は両者に与えられることになった(そのシーズン後にオコナーは監督を解雇され、コーチと共に永久追放されている)。

1981年、スポーティング・ニューズ社により1910年の集計に誤りが指摘され、カッブの成績が509打数196安打ではなく、506打数194安打であるとし、カッブの打率は.385から.383に修正され、シーズン打率は2位に後退した。しかしコミッショナー特別委員会は八百長の影響もあってか、首位打者の変更を認めず、ラジョイはシーズン打率1位でありながら首位打者を逃した選手となった。MLB公式記録でもカッブは509打数196安打で打率.385のままである。

計16シーズンで3割以上を打ち、1917年にマイナーリーグに落ち、インターナショナル・リーグで151試合に出場し打率.380で首位打者となった。42歳での快挙であった。

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選手としての特徴

詳細情報

要約
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年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球団 ...
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はMLB記録(1901年以降)。

(1901年以降のみ)

タイトル

  • 首位打者:5回(1901年、1902年、1903年、1904年、1910年)※1910年は他の選手を首位打者とする説もある
  • 本塁打王:1回(1901年)
  • 打点王:2回(1901年、1904年)

表彰

記録

  • シーズン歴代最高打率:.426(1901年)
  • 三冠王:1回(1901年)※近代野球初

インディアンス球団記録

  • 通算記録(打率3位・出場試合数2位・打席数2位・打数1位・安打数1位・二塁打2位・塁打数3位・打点3位・単打1位)
  • シーズン記録(安打数3位・単打3位)

脚注

関連項目

外部リンク

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