トップQs
タイムライン
チャット
視点

ジム・ブラウン

アメリカンフットボール選手、ランニングバック ウィキペディアから

ジム・ブラウン
Remove ads

ジェームズ・ナサニエル・ブラウン(James "Jim" Nathaniel Brown 1936年2月17日 - 2023年5月18日)は、ジョージア州セントサイモンズ出身の元アメリカンフットボール選手、俳優

概要 Jim Brown, 基本情報 ...

アメリカンフットボール選手としては、1957年から1965年までNFLクリーブランド・ブラウンズで活躍した。彼はNFLのシーズンラッシング記録、通算ラッシング記録を樹立している。2002年にスポーティングニュースによって100人の偉大なプロフットボール選手が選出されたとき最も偉大な選手に選ばれている[1]

Remove ads

経歴

要約
視点

プロ入りまで

父親はプロボクサーであった[2]。8歳の時にニューヨーク州マンハセットに移った。地元の高校に進学した彼はアメリカンフットボール、ラクロス野球バスケットボール陸上競技を行った。アメリカンフットボールでは1回あたり14.9ヤードを走り、バスケットボールでは1試合平均38点というロングアイランドの高校記録を作った[3]。この記録は後にカール・ヤストレムスキーによって破られた。野球では投手を務めてノーヒットノーランを2度達成している[4]

シラキューズ大学に進学し2年次、ラン獲得ヤードはチーム2番目となった。3年次には666ヤード(平均5.2ヤード)を走った。4年次には986ヤード(平均6.2ヤード)を走り14タッチダウンをあげた。ハイズマン賞の投票で彼は5位となった。コルゲート大学戦では197ヤードを走り6タッチダウンをあげると共にエクストラポイントも7本決めて43得点をあげチームは61-7で勝利した[4]。また大学時代にも彼はバスケットボールを1シーズンプレーし平均14得点、陸上競技では全米の大会で十種競技5位となった[4]ラクロスでは全米ナンバー1の選手と評価された[4]。1957年のテキサスクリスチャン大学とのコットンボウルでも132ヤードを走り3タッチダウンをあげてエクストラポイントを3回成功させたが1回ブロックされ試合には27-28で敗れた[5]。バスケットボールでは2年次にチーム2番目の平均15得点、3年次には11.3得点をあげた。ラクロスでは3年次にオールアメリカンのセカンドチームに選出され、4年次には10試合で全米2位となる43ゴールをあげてオールアメリカンのファーストチームに選ばれた[6][7]

プロフットボール選手時代

Thumb
ブラウンズ在籍時代のブラウン

1957年のNFLドラフト1巡目全体6位でクリーブランド・ブラウンズに指名されて入団した。この年のNBAドラフトで彼はシラキューズ・ナショナルズからも指名されていた[8]。この年彼は1試合で237ヤードを走るという新人ラッシング記録を作り[9]、その記録は40年後にシンシナティ・ベンガルズコーリー・ディロンが246ヤードを走るまで更新されなかった[10]

2年目の1958年には1,527ヤードを走り、この年リーグ2位の選手は791ヤードしか走っておらず、大差をつけてのリーディングラッシャーであった[11]

1961年11月19日の試合ではランで225ヤード、レシーブで50ヤード以上を獲得したが、同一試合でこの記録を達成したのは、その後2012年のジャマール・チャールズまで待つこととなった[12]

1963年には1シーズンのNFLラッシング記録となる1,863ヤードを走った。また通算ラン獲得12,312ヤード、通算106ラッシングタッチダウン、通算126タッチダウン、通算オールパーパスヤード15,549はいずれも当時のNFL記録となった[13]。また最初に100ラッシングタッチダウンをあげた選手でもある。1978年以降NFLはシーズン16試合となったが彼の現役最初の4年間はシーズン12試合、その後5年間も14試合であった。100タッチダウン目は93試合目にあげた。この記録は2006年にラダニアン・トムリンソンが89試合目であげて破った。1958年から1961年、1964年と5シーズンでオールパーパスヤードリーグトップとなった。彼は1試合平均100ヤード以上を達成している唯一の選手にもなっている。レシーバーとしても優れ262回のレシーブで2,499ヤードを獲得、20タッチダウンをあげた。またキャリア9年間すべてでプロボウルに選出され[13]現役最後の試合となったプロボウルでは3タッチダウンをあげた。数々の記録を残して29歳で現役を引退した。最後のシーズンもリーグ2位のラッシング記録を残した。

1963年に記録した1,863ヤードは現在もクリーブランド・ブラウンズ記録となっている。これはNFL32チームのチーム記録中最古のものとなっている。

現役引退後

Thumb
1970年の映画『…チック…チック…チック英語版』の一場面。共演女優のジャネット・マクラクラン英語版
Thumb
2007年11月にジャーナリストのフィル・コンスタンティン英語版

現役引退後は映画俳優となった。1964年に映画リオ・コンチョスで俳優としてデビューした彼は1967年の映画特攻大作戦の映画中で自身の引退表明のシーンを演じた。1969年の100挺のライフルではバート・レイノルズラクエル・ウェルチと共演した。ウェルチは2002年にスパイク・リー監督のJim Brown: All-American[14]にも出演している。1974年のThree th Hard Way、1975年のTake a Hard Rideなどいくつもの作品で同じ元NFL選手のフレッド・ウィリアムソンと共演している。1998年のスモール・ソルジャーズでは声優として出演した。1987年にはバトルランナーに出演、エニイ・ギブン・サンデーではアメリカンフットボールのコーチを演じた。

TVドラマではナイトライダーの3シーズン、第1話目エピソード「強敵!赤い殺人カー」に凶悪脱獄犯C・J・ジャクソン役で登場している。

引退から17年後の1983年に彼の生涯記録を破ることが期待されたピッツバーグ・スティーラーズフランコ・ハリスのプレースタイルに対して自分のように1ヤードでも多く獲得しようとタックラーに向かっていくスタイルと異なりすぐにアウト・オブ・バーンズに逃げたがると批判を浴びせた。1984年10月7日、シカゴ・ベアーズウォルター・ペイトンによって彼の通算ラッシング記録は更新された。一方ハリスは1984年にシアトル・シーホークスに移籍し8試合に出場したがブラウンの記録更新には及ばなかった。その後スティーラーズでプレーしたジェローム・ベティス(プレースタイルはブラウンと似ていた)はブラウンの記録を超えている。

1989年に彼の自叙伝、「Out of Bounds」がゼブラブックスから発行された。1993年にはUFCの解説者に起用されペイ・パー・ビューの最初の6シリーズを担当した。

2008年に彼はソニーEAスポーツに対してビデオゲームのマッデンNFLで彼の肖像権を無許可で使用されたと訴訟を起こした[15]

2002年にアル・ラーナーブラウンズオーナーが死去した後、後を継いだランディー・ラーナーの経営スタイルを否定している[16]

2010年、クリーブランド・ブラウンズのエクゼクティブ・アドバイザーを解任されたがラーナーオーナー一族とわだかまりはないことを明かしている[17]

2023年5月18日、ロサンゼルスの自宅で死去[18]。87歳没。

Remove ads

栄誉

1971年に彼はプロフットボール殿堂入りを果たした。また大学時代の活躍からカレッジフットボール殿堂入り、ラクロス殿堂入りも果たした。彼はNFLで118試合に出場し1試合平均104.3ヤードを獲得、平均5.2ヤードを稼いだ。1試合平均100ヤードを稼いだランニングバックは他におらず、例えばウォルター・ペイトンは1試合平均88ヤード、平均4・4ヤード、エミット・スミスは1試合平均81.2ヤード、平均4.2ヤードであった[19]。歴代ベスト10のラッシャーの内、彼に最も数字が近いのはバリー・サンダースであり1試合平均99.8ヤード、平均5.0ヤードを走った。なおサンダースの父親はブラウンを私が見たベストのランナーだと言っている[20]

彼の背番号32はクリーブランド・ブラウンズの永久欠番となっている。

社会活動

1972年からは全米で最も貧しい地区であるミシシッピ州マーシャル郡へのチャリティを行うようになった[4]

主な出演作品

映画

さらに見る 公開年, 邦題 原題 ...

テレビシリーズ

さらに見る 放映年, 邦題 原題 ...
Remove ads

参照

関連項目

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads