トップQs
タイムライン
チャット
視点
シカゴ・ベアーズ
アメリカンフットボールチーム ウィキペディアから
Remove ads
シカゴ・ベアーズ(英語: Chicago Bears、略称: CHI)は、アメリカ合衆国イリノイ州シカゴに本拠地をおくNFLチーム。NFC北地区に所属している。ホームスタジアムはソルジャー・フィールド。本部と練習場は、シカゴ都市圏内のレイクフォレストに位置し、「ハラスホール」と呼ばれている。
AFLとの合併以前にNFLを8度制覇しており、合併以後は1985年に第20回スーパーボウルを制覇している[注 1]。NFL創設時から存在するチームであり、プロフットボール殿堂入りメンバー数、永久欠番選出数はいずれもNFL32チームで最も多い。
Remove ads
概要
1920年9月17日にイリノイ州ディケーターでディケーター・ステイリーズ(Decatur Staleys)として創設し、誕生したばかりのNFL(当時は、アメリカン・プロフェッショナル・フットボール・アソシエーション、略称:APFA)に加入した。NFLオリジナルチームで現存するのは、ベアーズとアリゾナ・カージナルス(当時は、ラシーン・カージナルス)の2チームのみである。1921年にシカゴに移転し、シカゴ・ステイリーズ(Chicago Staleys)、1922年に現在まで続くシカゴ・ベアーズ(Chicago Bears)へと改名した。1970年シーズンまでは、シカゴ市内北部のリグレー・フィールドをホームとしていたが、現在はミシガン湖に隣接する南部エリアにあるソルジャー・フィールドをホームとしている。グリーンベイ・パッカーズとは、同じNFC北地区にあり、チームのNFL加入も1年しか違わない(パッカーズ は1921年加入)ため、長年にわたりライバル関係にある。
伝統的にディフェンスとランオフェンスによるボールコントロールを主体とした戦術を採用している。本拠地のソルジャー・フィールドは厳冬期はミシガン湖の上を吹き寄せる風によって大雪が降ったり、1988年のプレーオフ、フィラデルフィア・イーグルス戦(Fog Bowl)のように濃霧の中で行われた試合もある。
シカゴを地盤とする第44代アメリカ合衆国大統領のバラク・オバマは、自らがベアーズ・ファンであることを公言している[1]。
Remove ads
歴史
要約
視点
チーム創設期

ベアーズは、元々イリノイ州ディケーターに本社を置く食品澱粉製造企業のA・E・ステイリー社が会社のチームとしてディケーター・ステイリーズという名称で設立したチームだった[注 2]。1920年、ステイリー社は、ジョージ・ハラスとダッチ・スターナマンをチームを運営するために雇用した。ベアーズとNFLの公式記録上では、ハラスが創設者とされている。翌1921年、ステイリー社はチームをハラスとスターナマンに引き継ぎ、本拠地はシカゴへ、チーム名はシカゴ・スタリーズへと変更した。ハラスとスターナマンがステイリー社と交わした契約により、ハラスはステイリー社からチームのの権利を100ドルで購入している。
1922年、ハラスはチーム名をシカゴ・ベアーズへと変更した。また、ホームスタジアムをMLBのシカゴ・カブスが使用されているリグレー・フィールドに移転した。チーム名は、MLBのシカゴ・カブスのカブス(小熊)と対比し、フットボール選手は野球選手より大きいという理由でベアーズ(熊)の名が採用された。また、チームカラーは、ハラスの母校であるイリノイ大学の鮮やかなオレンジとブルーを若干濃くした色を採用した。
ベアーズは、NFL創設初期には圧倒的な強さを誇った。ベアーズとグリーンベイ・パッカーズとのライバル関係は、アメリカのプロスポーツ界で最も古く、1921年まで遡る。この年、ハラスはパッカーズが特定の選手と契約するのを阻止するためにリーグから除名させ、ベアーズがその選手との契約を成立させた後に、リーグに再加入させたという事件があった。

1921年にはNFLチャンピオンシップを獲得して以降、10年間その強さを維持した。1924年12月7日、ベアーズはクリーブランド・ブルドッグスを破って優勝を果たし、この年のチーム写真に「ワールドチャンピオン」という称号が付けられた。しかし、NFLでは11月30日以降の試合はリーグ戦の順位に含まれないことを事前に示しており、実際はクリーブランドに次ぐ2位であった。
1925年、ベアーズは、イリノイ大学4年生HBのレッド・グレンジを、グランジが大学を卒業する1日前に契約したことから、NFLは「大学生が卒業するまで選手と契約できない」というルールを長年制定していた。
この頃、チームは強かったものの、チーム内部では運営費の増加と観客動員数の減少という問題を抱えていた。カレッジフットボールのシカゴ大学の試合では1試合に40,000人から50,000人の観客が集まるのに対し、ベアーズは1試合に5,000人から6,000人の観客しか集まらなかった。そのため、ベアーズとしては、カレッジフットボールのトップ選手であるレッド・グレンジを選手として起用することで、より多くのファンを獲得したい、という思惑があった。グレンジは代理人のC.C.パイルを介し、ベアーズと1試合2,000ドルの契約を結んだ。最初の試合ではサイドラインにとどまったものの、ベアーズのQBジョーイ・スターナマンからチームのプレーを学び、その後の試合では、75,000人の観客を集め、西海岸のカレッジ・オールスターチームとして結成されたロサンゼルス・タイガース相手に17対7で勝利した。
1926年、レッド・グレンジはベアーズとの契約交渉がうまくいかず、パイルが創設したニューヨーク・ヤンキース(AFL)に移籍した。また、ジョーイ・スターナマンは自身がオーナーを務めるシカゴ・ブルズ(AFL)へ移籍した。その後、ベアーズはパディ・ドリスコルと契約した。シーズン後、AFLはわずか1シーズンで解散してしまったため、グレンジとジョーイ・スターナマンはベアーズに復帰することになった。
チームは財政的損失を負い続けており、1932年シーズン限りでハラスと共にチームを支えたダッチ・スターナマンは退団した[注 3]。12月18日、この年に導入され、非公式のNFLチャンピオンシップゲームとなった試合で、ベアーズがポーツマス・スパルタンズ(現、デトロイト・ライオンズ)相手に、シカゴ・スタジアムで行われた初の屋内アメリカンフットボールの試合に勝利した。
1932年のプレーオフゲームの成功により、NFLはチャンピオンシップゲームを導入することになった。1933年の初のNFLチャンピオンシップゲームでは、ベアーズはニューヨーク・ジャイアンツと対戦し、23-21で勝利した。
モンスター・オブ・ザ・ミッドウェイ時代
1940年から1947年にかけてQBのシド・ラックマンを擁して、5回のNFLチャンピオンシップゲームに出場し4回の優勝を果たした。この頃のベアーズは、「モンスター・オブ・ザ・ミッドウェイ」と呼ばれた(後述)。1940年12月8日に開催された1940年NFLチャンピオンシップゲーム(グリフィス・スタジアム)では、ワシントン・レッドスキンズ相手にNFL史上最も点差の開いた試合となる73-0での勝利を果たした[2]。1950年代はチームはどん底の時期を過ごしたが、1963年に再びチャンピオンシップゲームを制した。しかし、その後スーパーボウル優勝まで20年以上遠ざかることになった。1960年代終わりにはディック・バトカスやゲイル・セイヤーズ、ブライアン・ピッコロらを擁した。1971年にはABCのテレビ映画「Brian's Song」が作られ、ピッコロをジェームズ・カーン、セイヤーズをビリー・ディー・ウィリアムズが演じた。ハラスを演じたジャック・ウォーデンはエミー賞を受賞した。
ハラスは1967年にヘッドコーチを退任し、その後オーナーとなっていたが1970年のNFLによるAFLの吸収合併が行われた後、結成されたNFCの代表に選ばれ。1983年に亡くなるまで務めた。現在では、NFCチャンピオンシップゲームに勝利したチームに渡される「ジョージ・ハラス・メモリアル・カップ」にハラスの名が残されている。
苦闘の時代
1969年及び1970年は地区最下位に終わった。1975年のドラフト1巡目でジャクソン州立大学からウォルター・ペイトンを獲得した。ペイトンは1977年にシーズンMVPを獲得する活躍を見せて[3][4]1984年にはジム・ブラウンが持っていた通算ラッシング獲得ヤード記録を塗り替えて1987年に引退した。この記録は2002年にエミット・スミスに破られるまで保持された。[5]ペイトンはベアーズファンによって「Sweetness」と呼ばれ愛された。1999年に彼はガンのため亡くなった。
ディトカによるスーパーボウル制覇

1961年から1966年にベアーズのタイトエンドとして活躍したマイク・ディトカが1982年にヘッドコーチに就任した。彼の下でディフェンス・コーディネーターだったバディ・ライアンの考案した46ディフェンスやペイトンの活躍でチームは1985年のシーズンは、マンデーナイトフットボールでマイアミ・ドルフィンズに1敗した以外負け無しの15勝1敗でシーズンを終え、NFCのプレーオフではニューヨーク・ジャイアンツ、ロサンゼルス・ラムズを無得点に抑えスーパーボウルまで勝ち上がった。第20回スーパーボウルではニューイングランド・ペイトリオッツを46-10で破りスーパーボウル初制覇を果たした。この試合では3サックをマークしたリチャード・デントがMVPに選ばれている。また、レギュラーシーズンの対グリーンベイ・パッカーズ戦でワイドレシーバーとしても起用されTDパスを捕球したウィリアム・ペリーがショートヤードを残したところでフルバックとして起用され、タッチダウンを獲得している。
スーパーボウル制覇後

スーパーボウルを制覇した後も地区優勝を続けるなど、NFCの強豪として活躍を見せたベアーズだが、ウェストコーストオフェンスを用いたサンフランシスコ・フォーティナイナーズにプレーオフで敗れるシーズンが相次ぎ現在46ディフェンスは使われなくなっている。1992年シーズン終了後、ディトカがヘッドコーチを解任された後、ダラス・カウボーイズのジミー・ジョンソンヘッドコーチの下でディフェンスコーディネーターを務めたデイブ・ウォンステッドが1993年から1998年までヘッドコーチを務めたがプレーオフには1度しか出場を果たせなかった。1999年からヘッドコーチとなったディック・ジャーロンは2001年に地区優勝を果たしコーチ・オブ・ザ・イヤーに選ばれたが2003年までの5シーズンでチームがプレーオフに出場したのはその1度きりであった。
2002年シーズンのみ、本拠地ソルジャー・フィールドの改修工事に伴い、イリノイ州シャンペーンのイリノイ大学アーバナ・シャンペーン校内にあるメモリアル・スタジアムを使用した。
ラビー・スミスの時代
2004年、ラビー・スミスが新ヘッドコーチに就任した。
2005年のドラフト4巡目にQBカイル・オートンを指名した。この年は11勝5敗の成績をあげて、チームを地区優勝を果たした[6]。ディビジョナルプレーオフでカロライナ・パンサーズに21-29で破れシーズンを終えた[7]。
2006年、チームは開幕から7連勝し[8]、第9週にマイアミ・ドルフィンズに敗れて連勝は止まったものの[9]、第13週に地区優勝を決定[10]、13勝3敗でNFC第1シードを獲得した。ディビジョナルプレーオフでシアトル・シーホークスをオーバータイムの末、27-24で破り1988年以来となるNFCチャンピオンシップゲームに進出した[11]。NFCチャンピオンシップゲームではトーマス・ジョーンズや守備陣の活躍で、ニューオーリンズ・セインツを39-14で破り、21年ぶりのスーパーボウル出場を果たした[12]。ラビー・スミスは相手チーム、インディアナポリス・コルツのトニー・ダンジーと共にスーパーボウルに出場した初のアフリカ系アメリカ人ヘッドコーチとなった[13]。第41回スーパーボウルではデビン・ヘスターのキックオフリターンタッチダウンで開始14秒でベアーズが先制、第1Qにさらにレックス・グロスマンからムーシン・モハメドへのタッチダウンパスも決まり14-6とリードした。QBのグロスマンは28本中20本のパスを成功させたが2インターセプトを喫し、5点差だった第4Q初めにグロスマンのパスをインターセプトしたケルビン・ヘイデンに56ヤードのリターンタッチダウンを決められ[14]、最終的に17-29で敗れた。
2007年3月5日、トーマス・ジョーンズをドラフト2巡指名権と引き換えにニューヨーク・ジェッツにトレードした[15]。この年チームは7勝9敗に終わりプレーオフを逃した[16]。
2008年、9勝7敗でプレーオフを逃した。シーズン終了後、契約最終年のグロスマンと延長契約を結ばず放出した。
2009年、デンバー・ブロンコスのプロボウルQBジェイ・カトラーをQBカイル・オートンやドラフト指名権と引き換えに獲得、サラリーキャップのためセントルイス・ラムズから放出されたオフェンスラインのオーランド・ペースを獲得した。
2010年、カロライナ・パンサーズからジュリアス・ペッパーズを、ミネソタ・バイキングスからチェスター・テイラーを獲得した[17]。10月24日のワシントン・レッドスキンズ戦ではディアンジェロ・ホールに4インターセプトを喫し14-17で敗れた[18]。NFC北地区優勝を果たし、ディビジョナルプレーオフでシアトル・シーホークスを破り、NFCチャンピオンシップゲームまで進出しグリーンベイ・パッカーズと対戦したが、第3Qにジェイ・カトラーが負傷退場[19]、その後トッド・コリンズ、ケイレブ・ヘイニーがリリーフしたが敗れた[20]。
2011年、開幕から連勝を続けるグリーンベイ・パッカーズからは離されたものの、マット・フォーテイがランとレシーブの合計獲得ヤード数でNFLトップの活躍などで5連勝し7勝3敗とプレーオフ出場を争っていたが[21]、第11週にジェイ・カトラーが右手親指を骨折して戦線離脱[22]、フォーテイも第13週に負傷し戦線を離脱した[23]。控えQBのヘイニーが先発QBとなってから4連敗[24]、ジョシュ・マカウンが先発QBとして最後の2試合に先発出場し、最終週のミネソタ・バイキングス戦に勝利し連敗を5で止めて8勝8敗でシーズンを終えた[25]。シーズン終了後、パス偏重でカトラーとの確執も噂されていたマーク・マーツオフェンスコーディネーターが退団した[26][27]。またジェリー・アンジェロGMも解任された[28]。
2012年、第9週までの9試合で8勝1敗の成績をあげたが、その後3連敗するなど、残り7試合で2勝5敗、10勝6敗となり、タイブレークでプレーオフ出場を逃した[29]。シーズン終了後、ラビー・スミス・ヘッドコーチは解任された[30]。後任ヘッドコーチには、CFLのモントリオール・アルエッツヘッドコーチとして5シーズンで2度優勝しているマーク・トレストマンが就任することとなった[31]。
低迷再び
トレストマンHC
2013年シーズンは最終節まで地区優勝を争ったが、最終戦のパッカーズ戦で残り38秒にタッチダウンで逆転され敗戦。プレーオフ進出も果たせなかった[32]。
2014年シーズンはカトラーと2020年まで契約を延長して臨んだものの[33]、10月に3連敗、終盤に5連敗を喫し地区最下位となった。カトラーの調子も安定せず、一時は控えに降格した[34]。シーズン終了後、トレストマン・ヘッドコーチが解雇され[35]、後任には元カロライナ・パンサーズのヘッドコーチで、2014年シーズンまでデンバー・ブロンコスヘッドコーチを務めていたジョン・フォックスが迎えられた[36]。
ジョン・フォックスHC
カトラーは2016年シーズン後に引退し、チームはフォックスのもとで、2015年、2016年、2017年と3年続けて地区最下位に沈み、2017年シーズン後にフォックスは解任された。後任はカンサスシティ・チーフスOCのマット・ナギーとなった。
マット・ナギーHC
2018年シーズンは、前年のドラフト全体2位で指名したミッチェル・トゥルビスキーをエースQBとし、4年ぶりに地区最下位を脱し、8年ぶりに地区優勝とプレーオフ出場を遂げたが、プレーオフ初戦で敗退した。2019年はプレーオフを逃した。
2020年は新型コロナウイルス感染症の流行により全試合を無観客で開催した。ドラフト指名権とのトレードでジャクソンビル・ジャガーズからQBニック・フォールズを獲得した。8勝8敗の成績ながらもワイルドカードでプレーオフに進出したが初戦でニューオーリンズ・セインツに敗れた。
2021年、前ダラス・カウボーイズのQBアンディ・ダルトンと契約、トゥルビスキーはバッファロー・ビルズに移籍、この年のドラフト1巡目でQBジャスティン・フィールズを指名した。プレーオフ進出は逃した。シーズン終了直後、HCナギーとGMペースを解雇した。GMの後任にはカンザスシティ・チーフスの選手人事部門責任者だったライアン・ポールズが就任した。HCには、インディアナポリス・コルツのDCだったマット・エバーフラスが就任した。
マット・エバーフラスHC
2022年、シーズン最後まで10連敗を喫するなど成績は振るわず、地区最下位でプレーオフを逃し、リーグ全体でも最下位の勝率となり翌ドラフトの総合1位の指名権を得た。
2023年、開幕から4連敗を喫して前年からの連敗を14とするも、5週目にワシントン・コマンダースを破って連敗を止めた[37]。負け越してプレーオフを逃した。最下位に終わったカロライナ・パンサーズから1年前に2024年ドラフトの一巡目の権利をトレードで得ていたため、2年連続しての総合1位に加え9位の指名権を手にすることになった。
2024年はドラフト全体1位で獲得したQBケイレブ・ウィリアムズを擁して臨むシーズンとなった[38]。序盤こそ4勝2敗で滑り出したが[39]、そこから10連敗を喫し地区最下位でプレーオフを逃した[40]。ウィリアムズが68サックを喫するなどオフェンスが機能せず[41]、第13週の試合で3点差を追う試合終了間際に敵陣まで攻め込んだにもかかわらず、タイムアウトコールのミスでフィールドゴールすら蹴れずに敗れ去るなど[42]、チームのゲームマネジメントにも問題が露呈した。シーズン中の11月、エバープラスは解雇され(HCのシーズン中解雇はチーム史上初)、オフェンス・コーディネーターのトーマス・ブラウンが暫定HCとなった[43]。
ベン・ジョンソンHC
2025年1月21日、デトロイト・ライオンズのオフェンス・コーディネーターのベン・ジョンソンがヘッドコーチになった[44]。
Remove ads
文化

モンスター・オブ・ザ・ミッドウェイ
ベアーズの強力なディフェンス陣はしばしばモンスター・オブ・ザ・ミッドウェイ(Monsters of the Midway)と呼ばれていた。最初は1940年と1941年の圧倒的な強さのことを指していたが、第20回スーパーボウルで優勝した1985年にも同様の呼称をされ、以来ベアーズのディフェンス陣、特にラインバッカーを指すニックネームとなった。もともとは、エイモス・アロンゾ・スタッグ率いるシカゴ大学フットボールチームのニックネームであり、同大学キャンパスに隣接する「ミッドウェイ・プレイサンズ」という通り名から名付けられた。そのため、シカゴ・ミッドウェー国際空港とは関係がない。
ベアーズのラインバッカーとして活躍した選手には、ビル・ジョージ(1952–1965)、ディック・バトカス(1965–1973)、マイク・シングレタリー(1981–1992)、ブライアン・アーラッカー(2000–2012)などがいる。
マスコット
チームの公式マスコットは、クマのステイリー・ダ・ベアー(Staley Da Bear)である。名前は、元々のベアーズ創設者である農工業製品メーカーのA・E・ステイリー社から名付けられた。2003年に登場し、以来試合のみならず、チャリティーイベント、パーティー、シカゴ・ラッシュ(AFL、2013年解散)の試合などに参加している。
チアリーダー
現在、ベアーズにはチアリーダーは存在しない[45]が、1970年代後半から1985年までシカゴ・ハニーベアーズ(Chicago Honey Bears)が活動していた。第20回スーパーボウルで優勝したのち、解散となった。
2024年シーズン成績
Remove ads
成績
NFC北地区(2002年-現在)
- GB:グリーンベイ・パッカーズ、MIN:ミネソタ・バイキングス、CHI:シカゴ・ベアーズ、DET:デトロイト・ライオンズ
- 数字:シード順
- v:スーパーボウル優勝
- s:スーパーボウル敗退
- c:カンファレンス決勝敗退
- d:ディビジョナルプレーオフ敗退
- w:ワイルドカードプレーオフ敗退
- 年表示の背景色が変わっている年はチームがスーパーボウルを制覇した年
NFC中地区(1970年-2001年)
- GB:グリーンベイ・パッカーズ、MIN:ミネソタ・バイキングス、CHI:シカゴ・ベアーズ、DET:デトロイト・ライオンズ、TB:タンパベイ・バッカニアーズ
- 1982年シーズンはストライキの影響により、地区別成績ではなくカンファレンス上位8チームがプレイオフ進出するルールであったが、ここでは地区別に変換して表記する。
- 括弧内の数字はプレイオフ出場時のシード順(シード制導入前は表記なし)、文字はv:スーパーボウル優勝、s:スーパーボウル敗退・カンファレンス優勝、c:カンファレンス決勝敗退、d:ディビジョナルプレーオフ敗退、w:ワイルドカードプレイオフ敗退。1982年についてはd:2回戦敗退、w:1回戦敗退。
- 年表示の背景色が変わっている年はチームがスーパーボウルを制覇した年
NFL西カンファレンス・中地区(1967年-1969年)
- GB:グリーンベイ・パッカーズ、MIN:ミネソタ・バイキングス、CHI:シカゴ・ベアーズ、DET:デトロイト・ライオンズ
- 括弧内の文字はv:スーパーボウル(AFL-NFLワールドチャンピオンシップゲーム)優勝、s:スーパーボウル敗退・NFL優勝、n:NFL決勝敗退・カンファレンス優勝、c:カンファレンス決勝敗退
- プレイオフは地区優勝チームのみ出場
NFL西カンファレンス(1953年-1966年)
- SF:サンフランシスコ・49ERS、GB:グリーンベイ・パッカーズ、DET:デトロイト・ライオンズ、LA:ロサンゼルス・ラムズ、BAL:ボルチモア・コルツ、CHB→CHI:シカゴ・ベアーズ、DAL:ダラス・カウボーイズ、MIN:ミネソタ・バイキングス
- 括弧内の文字はV:スーパーボウル勝利、v:NFL優勝、n:NFL決勝敗退・カンファレンス優勝
NFLナショナル・カンファレンス(1950年-1952年)
- SF:サンフランシスコ・49ERS、GB:グリーンベイ・パッカーズ、DET:デトロイト・ライオンズ、LA:ロサンゼルス・ラムズ、BAL:ボルチモア・コルツ(初代)、CHB:シカゴ・ベアーズ、NYY:ニューヨーク・ヤンクス、DAL:ダラス・テキサンズ
- 括弧内の文字はv:NFL優勝、n:NFL決勝敗退・カンファレンス優勝
NFL西地区(1933年-1949年)
- 1944年は、太平洋戦争の影響により、スティーラーズとカージナルスが合同チームで西地区に参加した。
- GB:グリーンベイ・パッカーズ、CHC:シカゴ・カージナルス、CHB:シカゴ・ベアーズ、POR→DET:ポーツマス・スパルタンズ→デトロイト・ライオンズ、CLE→LA:クリーブランド・ラムズ→ロサンゼルス・ラムズ、CIN:シンシナティ・レッズ、StL:セントルイス・ガンナーズ、Card-Pitt:シカゴ・カージナルスとピッツバーグ・スティーラーズの合同チーム
- 括弧内の文字はv:NFL優勝、n:NFL決勝敗退・地区優勝
NFL(1920年-1932年)
- 1932年以前はチームの入れ替わりが激しかったため、現存チームのみを表記する。
- NY・NYG:ニューヨーク・ジャイアンツ、GB:グリーンベイ・パッカーズ、BOS:ボストン・ブレーブス(現コマンダース)、POR:ポーツマス・スパルタンズ(現ライオンズ)、DEC→CHS→CHB:ディケーター・ステイリーズ→シカゴ・ステイリーズ→シカゴ・ベアーズ、CHC:シカゴ・カージナルス
Remove ads
主な選手
要約
視点
現役選手
永久欠番
プロフットボール殿堂入り
ブライアン・ピッコロ賞
ベアーズは毎シーズン、ルーキー選手1名、ベテラン選手1名にブライアン・ピッコロ賞という賞を授与している。これは、1970年に26歳で胚細胞癌のため亡くなったブライアン・ピッコロ(RB)の勇気、忠誠心、チームワーク、献身、ユーモアのセンスに敬意を表したものである。1970年に始まり、以降授賞式は毎年、本部のハラスホールで開催される。
Top 100 greatest Bears of all-time
オールタイムチーム
→詳細は「オールタイムチーム(英語版)」を参照
その他引退選手
現役選手
- カリル・マック - リーグを代表するパスラッシャー。2018年チームに加入。
- ダン・ハンプトン
- ゲイル・セイヤーズ
- マイク・シングレタリー
- イラク駐留米軍を訪問したマクマーンとケビン・バトラー
- ブライアン・アーラッカー
Remove ads
ギャラリー
- 1924年優勝メンバー
歴代ヘッドコーチ
- ジョージ・ハラス (1920-29, 33-42, 46-55, 58-67)
- ラルフ・ジョーンズ (1930-32)
- ハンク・アンダーソン / ルーク・ジョンソス (1942-45)
- パディ・ドリスコル (1956-57)
- ジム・ドゥーリー (1968-71)
- エイブ・ギブロン (1972-74)
- ジャック・バーディー (1975-77)
- ニール・アームストロング (1978-81)
- マイク・ディトカ (1982-92)
- デイブ・ウォンステッド (1993-98)
- ディック・ジャーロン (1999-2003)
- ラビー・スミス (2004-2012)
- マーク・トレストマン (2013-2014)
- ジョン・フォックス(2015-2017)
- マット・ナギー (2018-2021)
- マット・エバーフラス (2022-2024)
- トマス・ブラウン (2024) (暫定)
- ベン・ジョンソン (2025-)
- ジョージ・ハラス
- ラルフ・ジョーンズ
- ジャック・パーディー
- マイク・ディトカ
- デイブ・ウォンステッド
- ラビー・スミス
Remove ads
脚注
外部リンク
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads