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セビリア万国博覧会
1992年にスペインのセビリアで開催された国際博覧会 ウィキペディアから
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セビリア万国博覧会(セビリアばんこくはくらんかい西: Exposición Universal de Sevilla 1992)は、1992年にスペイン南部、アンダルシア州の州都セビリア(Sevilla)で開催された国際博覧会である。


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概要
要約
視点
クリストファー・コロンブスが「黄金の国ジパング」を目指して西へと公開し、サン・サルバドル島に上陸した1492年は、スペインの歴史にとって記念すべき年である。1980年代のスペインは、欧州連合に加盟しヨーロッパ先進諸国と肩を並べて新たな発展の道を目指すために、国威を発揚し国民の意識変革を図るために、コロンブスの新大陸発見500年にあたる1992年に、バルセロナオリンピック、セビリア万博の同時開催が計画された[2]。
1976年5月31日にスペイン国王フアン・カルロス1世が、スペインとイベロアメリカ諸国の魅力を世界に示す万博を開催する意向を発表した。1981年1月26日、セビリア市議会は支援要請を承認した。1982年3月3日、スペイン政府はBIEに万博開催を正式に要請した[3]。
スペインで設立された「アメリカ大陸発見500年記念祭実行委員会」は、1992年セビリア万博のキャッチフレーズとして「新世界の誕生」を掲げていた。一方で、コロンブスの到着地だったアメリカでも、シカゴ市で同じく1992年に万博が立案された。シカゴは、1981年12月にアメリカ合衆国連邦政府を経由して、博覧会国際事務局(BIE)に登録申請を実施した。
当時の国際博覧会条約では、総合的なテーマを扱う「一般博覧会」を同時に二都市で開催することはできないことになっていたが、BIEは歴史的・文化的意義を考慮して、二都市同時開催ができるように、1972年改正条約の議定書の一部改正が、1982年6月の第91回パリ総会で採択された。しかし、シカゴ万博の開催計画は、1985年6月にイリノイ州議会が開催法案を否決したために中止された。一方で、コロンブスの生誕地であるイタリア・ジェノヴァ市が万博開催を希望し、ジェノヴァは「船と海」をテーマにした「特別博覧会」を開催した(ジェノヴァ国際博覧会)[4]。
セビリア万博開催の狙いとして、以下のような意義が挙げられていた。
- ヨーロッパ社会の一員でありながら、長い期間孤立してきたスペインの新たなイメージとアイデンティティを世界にアピールする。
- スペイン語文化圏(イベロアメリカ)諸国との連帯感を強化する。
- 開発発展が遅れていたスペイン南部の社会経済開発の起爆剤とする。
日本は、1964年東京オリンピック、1970年日本万国博覧会(大阪万博)を相次いで開催することで、世界に「高度経済成長を続ける新しい日本」のイメージをアピールした。スペインは、夏季オリンピック、万博の両方を同年に開催し、国際的イベント開催による経済波及効果、社会開発効果とともに、新しい国家像、変貌する社会のイメージを全世界に発信する手段とした[5]。
1970年の日本万国博覧会(大阪万博)以来22年ぶりの一般博覧会だった。この間、1976年開催予定・フィラデルフィア(アメリカ)、1981年開催予定・ロサンゼルス(アメリカ)、1989年開催予定・パリ(フランス)が、一般博覧会としてBIEに開催登録が承認されていたが、いずれも国内事情を理由に中止になった[6]ことが、開催間隔が22年も開いた原因である。
176日間の会期(4月20日 - 10月12日)の間に総入場者数は約4181万人に及んだ。会期中には112以上の国・地域が参加した。[7]
コロンブスの墓があるセビリア市・カルトゥハ島を会場として、「発見の時代」をテーマに掲げた。万博の最終日は、クリストファー・コロンブス艦隊が1492年に「アメリカ大陸の発見」を果たし、バハマ諸島のサン・サルバドル島(グァナハニ島)へ上陸した日付(10月12日)に合わせられていた。[1]
セビリア万博は、スペインが民主化以降に世界に向けて発信した国際的大事業であり、同年のバルセロナオリンピックと並んで「1992年のスペイン復権」を象徴する出来事となった。歴史的記念性、経済的波及効果、都市インフラ整備という三要素を兼ね備えたこの博覧会は、20世紀後半の「成功した博覧会」の一つとして位置づけられている。しかし後述するように、会場の跡地利用では課題を残した。
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開催の経緯とテーマ
主催者はスペイン政府、アンダルシア州およびセビリア市などで、100を超える国と国際機関が参加した。[8] テーマは「発見の時代(The Age of Discovery)」であり、16世紀以降の航海・科学・文化・技術の進歩を「人類の旅」として表現した。会場中央には「発見の大道(Road of the Discoveries)」と呼ばれるゾーンが設けられていた。ただし、このテーマは「ヨーロッパ中心の歴史観を肯定している」との批判も出ており、新大陸の“発見”を祝うという歴史観が植民地主義的視点を温存している、という指摘がある。[9]
会場と施設
会場面積は約215 ヘクタール。セビリア市北部、グアダルキビル川に浮かぶラ・カルトゥハ島を中心に整備された。中心部には噴水や運河が設けられ、夏季の高温環境にも配慮された設計となっていた。[10] 各国パビリオンのほか、スペイン政府によるテーマ館、企業・自治体パビリオンも多数出展し、日本館、中国館、サウジアラビア館などが高い人気を集めた。[11]
日本による出展
日本政府もこの万博には参加した。総合プロデューサーは作家の堺屋太一が務め、木造のパビリオンは建築家の安藤忠雄が設計した。館内では安土城天守閣の最上部(5-6階)の原寸復元がメイン展示として紹介され、6代目尾上丑之助(現在の5代目尾上菊之助)による歌舞伎などの上演も行われた。万博終了後、安土城の原寸復元は滋賀県近江八幡市の「安土城天主信長の館」へ移築され、現在でも公開されている。
日本館には、愛知県による、2005年日本国際博覧会(愛知万博)誘致PRコーナーも存在していた。
セビリア万博の際にはサンタ・マリア号らコロンブスの船団を成した3隻の船や、フェルディナンド・マゼランの船団においてただ1隻、世界一周を果たして帰還したビクトリア号の復元船が建造されていた。復元船ビクトリア号は愛知万博にあわせて世界一周に挑み、その途上、万博開催期間中の名古屋港にも寄港している。
日本館とは別に、日本の大手電機メーカーである富士通も「富士通パビリオン(スペイン語名称:Pabellón de Fujitsu)」を出展していた[12]。富士通パビリオンの建物は、事業者(Developer)はDragados y Construcciones、建築家(Architects)はJosé A. Carbajal Navarro & José、Luis Daroca Bruñoが担当した[13]。パビリオン内部で上映された、ドーム型スクリーンに映し出された3次元映像作品「ユニバース2~太陽の響~」は、植物内部の細胞におけるさまざまな分子の動きなどをコンピュータグラフィックスで描いた内容で、1990年に開催された国際花と緑の博覧会(大阪花博)で同名の富士通パビリオンで上映されたものと同一作品である[14]。富士通パビリオンは人気が高く、セビリア万博会場に連日訪れた日本人の証言によると、「朝10時前には予約券を配り切ってしまい、いつ行っても入れない」状態だったようだ[15]。
セビリア万博閉幕後は、日本館の建物は解体されたが、後述するように富士通パビリオンの建物は2020年代でも残存している。
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インフラ整備

開催にあたって、スペイン政府は大規模なインフラ整備を行った。なかでも最大規模の事業が、高速鉄道AVE(Alta Velocidad Española)のマドリード-セビリア間(約500 km)であり、1992年4月21日より営業運転を開始した。[16] これによりスペイン初の高速鉄道サービスが実現し、所要時間は従来の約7時間から約2時間半へと短縮された。[17] さらに、セビリア新中央駅(サンタ・フスタ駅)の開業、環状高速道路SE-30の整備や新空港ターミナルの建設、建築家サンティアゴ・カラトラバ設計の橋梁「アルアミッロ橋(Puente del Alamillo)」の完成など、都市全体の近代化が図られた。[18]
AVE開通をはじめとする交通インフラの整備は、スペイン全体の経済・観光振興に大きな影響を与え、以後の高速鉄道網拡大のモデルケースとなった。[19]
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会場跡地と遺産
要約
視点


博覧会終了後、会場は「カルトゥハ93」と呼ばれるハイテク産業・研究拠点として転用された。1988年に改正(実際の発効は1996年)される前の国際博覧会条約の分類における一般博覧会では、会期が終了後は、展示館(パビリオン)は原則として撤去しなければならないと書かれていた。ゆえに、過去の万博では、閉幕後に華麗なパビリオンは撤去され、跡地利用は都市公園として利用される事例が多かった。万博会場建設のための巨額の費用は、閉幕後は捨て金となってきた。セビリア博では、パビリオンを可能な限り閉幕後も残し、万博開催にともなうインフラストラクチャーを、そっくりハイテクセンターとして再利用することを目指した[20]。1988年改正後の条約では、撤去原則が削除された。
セビリアでは、当初のパビリオンの建設・撤去条件として、テクノポリスを実現するため、出展国内の先端技術産業の誘致ができるなら展示館の存続を認め、そうでなければ撤去を義務づけた。ただし、あくまで展示施設として建設されているので、恒久施設として利用するにあたっては、執務環境改善のために必要な窓の取り付けや設備の設置などの改修・増築工事を行わなければならない。
出展国にとっては展示施設を取り壊すよりも、企業誘致して施設売買したほうが安上がりになることは言うまでもないが、進出企業も増改築工事費が伴うものの、安い施設購入費のため、新規建設に比べて格安で入手できるなど、双方にとってメリットのある方式を導入している。なお、土地はアンダルシア州の所有であり、譲渡の対象にはならない[21]。
しかし、1990年代前半のスペインは経済成長率が低下し、1993年には-1.2%となった。スペインの旧通貨ペセタは切り下げられ、赤字支出や為替レートは高騰し、スペインは不況に陥った。しかも、欧州連合の経済通貨統合に参加できる基準を満たすために、スペイン政府は医療、産業補助金、失業手当などの支出を急激に削減した。セビリアの失業率は1993年に28%に達し、観光業が落ち込み、経済活動の水準は万博開催の5年前の水準に低下した。こうした状況下で、万博会場跡地の活用は停滞し、有効活用されるはずだったパビリオンが放棄されたり、関係者が闇市でパビリオンの中身を売却するなどした。結果的に、跡地利用が本格的に動き出したのは90年代後半以降だった[22]。
2005年日本国際博覧会の企画運営委員・博覧会協会企画調整会議委員を務めた井澤知旦は、セビリア万博会場跡地について、「当初は不況のため、思うように施設処分できなかったが、6年経過した1998年時点では、概ね区画の7割は活用の目処がつき、すでに五割が稼働中である」と述べる一方で、「セビリアのような展示施設然とした施設の後利用は無駄が生じる」と評していた[23]。
セビリア万博日本館のプロデュースに関わった平野暁臣は、「閉幕から5年後」すなわち1997年にセビリア万博会場跡地を訪れた経験を回想して、「そこで眼にしたのは悲惨な光景でした。広大なサイトに散在する建物はいずれも廃墟同然で、営業をつづけているはずだったプレイランドも閉鎖。再開発計画も事実上凍結され、人っ子ひとり歩いていません。点在する元パビリオンに入居させられてしまった(引用者注:州政府)関係機関だけが、見捨てられたように取り残されていました」と述べていた[24]。
谷田真(論文発表当時は名城大学理工学部建築学科講師)は、「結果的に、建設費、撤収費、売却費のバランスを鑑みて、会場地の6割近くの区画で恒久施設が採用されることになる。ただし、当初のもくろみである外国の企業を誘致した施設はわずかであり、ほとんどの施設でスペインの企業が入居している」「閉幕後9年を経た(引用者注:2001年ごろ)かつての会場地を見た。調整中も含め有効利用できていない区画が3割程度残っており、施設と更地がモザイク状に散在する景観がテクノロジーパークに沈滞感を漂わせていた。また、残された施設も、本来は博覧会のためにつくられた施設であり、用途転換されても変わらない外部デザインに違和感が見られた」と述べていた[25]。
2005年日本国際博覧会で広報プロデューサーを務めたマリ・クリスティーヌ、首都大学東京大学院の准教授(当時)だった鳥海基樹が共著で2007年に発表した論文[26]によれば、当初の用途のまま娯楽型教育施設として継続使用を試みた「未来館」「海洋館」「スペイン館」「アメリカ館」などはすでに完全閉鎖され、別用途への転用がなされていないばかりか取り壊しもされず廃墟と化していた。一方で、オフィス、研究施設に転用されたパビリオンは、「世界貿易センター」となったものなど数件にとどまっていた。
セビリア万博会場の面積は215haだったが、このうち33haの敷地と49haの道路・公園等公共用地が、「カルトゥハ科学技術公園(Parque Cientfico y Tecnologico Cartja93)」となった。これを運営する公社は、1991年に設立され、アンダルシア州が51%を出資した。2006年時点で進出企業数311社、就業者数1万1455人規模のテクノパークとなり、年間16.8億ユーロの収益を生み出していた。アンダルシア州議会が2006年7月に承認したセビリア市都市統制計画により12.3haの増床が決定された。
しかし、万博遺産がコンヴァージョン(Conversion、変換、転換)され稼働中だったのは「イタリア館」のみで、これは中小ITベンチャー企業のインキュベータ(孵化器)として1万4645㎡に増床され小規模単位で賃貸されていた。他の建物は万博跡地に新築されたものだった。街路網は万博当時の幅員をそのまま使用しているが、開催当時の公共交通システム(モノレール、ロープウェイなど)は全廃されていることから、現在は自動車利用を前提としている。公共空間における植栽が少ない上に維持の質が低く、環境的にもデザイン的にも貧しく、真夏に40℃を超える気候に対応していないと評されていた。
2024年3月に現地を訪問した古市憲寿は、「まるで人類が滅亡した未来都市に迷い込んでしまったのかと錯覚するほど、ほとんど人影のない島に、夥(おびただ)しいパビリオンが屹立(きつりつ)していたのである」「パビリオンが、驚くほど残存しているのである」「島は完全に廃墟になってしまったわけではない。万博パビリオンの一部は、大学のキャンパスや研究所などとして活用されている」「カルトゥハ島の雰囲気は筑波研究学園都市に似ている。整然とした街路に、やたら未来的な建物が建ち並ぶのに、あまり人間の姿を見かけない」などと述べていた[27][28]。古市は、セビリアの人口は1992年に70.2万人、2023年には69.3万人と、ほとんど横ばいなので、万博をきっかけにカルトゥハ島を新規開発しても、その需要が限定的なのは当然であると述べていた[29]。
跡地の一角には、遊園地「イスラ・マヒカ(Isla Mágica)」[30][31]が1997年に開園した[32]。入場者数は、初年度は約130万人だったが、その後は減少と回復を経験し、2019年には約86万人だった。冬季は休園している[33]。万博当時は「富士通パビリオン」として使用された建物は、2024年でも残存し、セビリアの教員研修センターとして使用されていた[34]。
欧州連合が2023年に発足させた「欧州アルゴリズム透明性センター(European Centre for Algorithmic Transparency、略称:ECAT)」[35]は、SNSの仕組みが偽情報の拡散につながっていないかなどを監視している組織である。セビリア市内にある、かつて万博で使われた茶色いビル(具体的な名称は不明)に入居しているようだ[36]。
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その他のエピソード
セビリア万博の翌年である1993年には、韓国で大田国際博覧会が開催された。当時の韓国では、セビリア万博の韓国館や会場風景を写した複数の記録映像が制作され、関心が高かったことがうかがえる[37][38][39]。
関連項目
脚注
外部リンク
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