トップQs
タイムライン
チャット
視点

ダコタ・ハウス

ニューヨークの高級アパート ウィキペディアから

ダコタ・ハウス
Remove ads

ダコタ・ハウス (The DakotaDakota Apartments) は、アメリカ合衆国ニューヨーク市マンハッタンアッパー・ウエスト・サイドにある高級集合住宅コーポラティブハウス)である。1880年着工、1884年竣工。

概要 所在地, 座標 ...

ここに住んでいたジョン・レノンビートルズ)が1980年12月8日マーク・チャップマンに射殺された場所 (建物玄関前) としても知られている。

The Dakotaという名称の由来には、諸説ある。1つ目は、建設当時マンハッタン区のアッパー・ウエスト・サイドは、あたかもダコタ準州のように、まだ住宅の数がまばらだったからという説。2つ目は、1933年の新聞に書かれているもので、発注主のエドワード・クラークがダコタ準州が好きだったからという説[4]である。日本ではダコタ・ハウスと呼ばれるが現地ではそのように呼ばれることはない。

Remove ads

立地

Thumb
手前の左から順に「The Majestic」「ダコタ・ハウス」「The Langham」「The San Remo
Thumb
1階外側の柵にある装飾
Thumb
ジョン・レノンが撃たれた南玄関
Thumb
正面図(南側から)
Thumb
セントラル・パークのスケートリンクから撮影(1890年)

マンハッタン区を南北に走るセントラル・パーク・ウェストと、東西に走る72丁目および73丁目の、計3本の道路に挟まれた角地に立地している。

同じ72丁目沿いには、ホテル・オルコットがある。

セントラル・パーク・ウェストを挟んだ先には「セントラル・パーク」が広がっており、南東に面した部屋の窓からは、眺望が可能である[5][6]

地下鉄B/C線で72丁目駅で下車するとすぐ目の前。入り口には警備員が常駐していて、住民以外は立ち入り禁止になっている。[7]

歴史

後にマンハッタンの「プラザホテル」の建設でもコンビを組むこととなるシンガーミシン社長のエドワード・クラークが、ヘンリー・J・ハーデンバーフに設計を依頼して、建てられた[8]

当時、マンハッタンのアパートメント形式の住宅としては、2番目に着工された[9]

1972年に、アメリカ合衆国国家歴史登録財NRHP)に選ばれ、1976年には、アメリカ合衆国国定歴史建造物NHL)に指定された[3][10]

なお、ダコタ・ハウスの役員会による入居審査基準は、ニューヨークで最も厳しいとされ、単に資産や収入が多いだけでは入居できない[11]。今までにビリー・ジョエルシェールメラニー・グリフィスマドンナカーリー・サイモンアレックス・ロドリゲスジャド・アパトーティア・レオーニなどが入居を拒否されている[12]。また、20年近くすでに入居者であった黒人の投資家がもう一戸を買い足そうとしたところ、役員会に拒否されたため、人種差別的であるとして訴訟を起こした[13]

Remove ads

建物の特徴

構造

「ロ」の字型の構造になっており、その大きな中庭には噴水がある[14][15]。建設時の総戸数は65。

2010年ウォール・ストリート・ジャーナルの記事によると、地上10階建てになっており、その最上階の(屋根の軒先の下の)部屋は、当初はメイドの部屋になっていた(後に一般居住用として販売)[11]

デザイン

鋭角のと、多数のドーマー(小窓)がある深い屋根が象徴的で、テラコッタを用いたスパンドレル(2つのアーチに挟まれた三角小間)とパネル、壁龕バルコニー、バラスター(手すり子)には、北ドイツルネサンス様式の特徴がある。ドイツ風の外観に対し、内装は建設当時流行っていたフランス・バロック様式を取り入れたもので、各戸違ったデザインが施されているが、アンフィラードと呼ばれる連続式に整列した部屋と4m以上ある高い天井が特徴である。

1階外側の柵(フェンス)には、ドラゴンをモチーフにした金属製の飾りが、多数設置されている[16]

設備

当初から、館内に自家発電装置があり、セントラルヒーティングが導入されているなど、画期的な設備をそなえていた[9]

ジョン・レノンの死

近所のセントラル・パークには、ジョン・レノンを偲ぶ「ストロベリー・フィールズ」(楽曲ストロベリー・フィールズ・フォーエバーに因む)という小広場が作られており、そこには「イマジン碑」(平面的な黒と白のモザイク模様のメダリオン)がある[17]

ジョンとヨーコ1973年にダコタ・ハウスに転居。7階に2戸と別の階に3戸の計5戸を少なくとも所有しており、自宅のほかに、倉庫、ヨーコのスタジオ、ゲストハウスとして使用(倉庫にしていた1戸は2008年に売却)。ただし、1973年半ばから二人は別居状態にあり、ジョンは秘書で恋人のメイ・パンと暮らしていたため、1974年末までジョンは住んでいない[18]1975年にはここでショーンが生まれ、ジョンは音楽活動を一時休止して子育てに励んだ。1980年のジョンの死後もヨーコは2023年まで住み続け、毎年中庭で開かれる住民のポトラック・パーティ(食べものを各自が持ち寄るパーティ)では、ジョンの生前からの習慣を引き次いで毎回寿司を差し入れていた[19]

Remove ads

登場作品

ダコタ・ハウスに住んだ著名人

要約
視点

今まで、数多くの個性的なクリエーター、アーティストが住んできた。しかし、最近はそうでもないというような苦言を、2005年アルバート・メイスルズが述べたことを、「ニューヨーク・タイムズ紙」は報じた。同年、彼が売りに出した部屋を、カルト女優[要出典]とも称されるメラニー・グリフィスと夫で俳優のアントニオ・バンデラスが購入しようとしたが、役員会が拒否したという件があった[45]

過去にも、ジーン・シモンズキッスベーシスト[46]や、ビリー・ジョエル[47]といったアーティストが、入居を拒否されたことがあった。

Remove ads

脚注

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads