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ディエゴ・ルガーノ

ウルグアイのサッカー選手 ウィキペディアから

ディエゴ・ルガーノ
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ディエゴ・アルフレド・ルガーノ・モレーノ(Diego Alfredo Lugano Moreno, 1980年11月2日 - )は、ウルグアイカネローネス出身の元サッカー選手。元ウルグアイ代表。ポジションはディフェンダー。主にセンターバックであるが、サンパウロ在籍時には左サイドバックとしてプレーしたこともある[3]

概要 ディエゴ・ルガーノ, 名前 ...

パオロ・モンテーロの後継者と言われることがある[4]

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クラブ経歴

要約
視点

初期の経歴

少年時代はCAトレス・エスキナス・カネローネス、CAリベルタでプレーし、18歳だった1998年、リベルタからデビューした。1999年にナシオナルに移籍し、1999-2000シーズンにプリメーラ・ディビシオンで優勝した。プラサ・コロニアを経て、2003年にブラジルサンパウロFCに移籍。オズワルド・オリヴェイラ監督の意見を聞かずに、マルセロ・ポルトゥガル・ゴウベイア会長が独断で獲得を決めたため、ルガーノはhomem do president(会長の男)と呼ばれた[5]。2003年末にオリヴェイラ監督が退任すると、ルガーノの出場機会は増加。2004年にはリーグのベストイレブン(ボーラ・ジ・プラッタ)と最優秀ディフェンダー賞を獲得し、2005年にはカンピオナート・パウリスタコパ・リベルタドーレスFIFAクラブワールドカップの3冠に貢献した。FIFAクラブワールドカップでは最優秀選手賞を受賞し、同年には南米最優秀ディフェセリエA (サッカー)ンダーにも選出された。リーダーシップ[6] や対人プレーの強さ[7] がサポーターの人気を得て[8]、クラブとも良好な関係を築いた[9]。2006年のコパ・リベルタドーレスでは準優勝に貢献した。

フェネルバフチェ

2006年8月21日、トルコフェネルバフチェに移籍[10]。契約期間は3年間(1年のオプション付き)で、移籍金は750万ユーロと報じられている。エドゥ・ドラセナとセンターバックのコンビを組み、クラブ創設100周年の記念年となる2006-07シーズンにはリーグ制覇に貢献した。ルガーノは頻繁に攻撃参加することで名高く、セットプレーの際には前線で待機してヘディングでゴールを狙った。守備のしつこさやセットプレー時の壮観さはサポーターに愛され、Talento=才能、Orgullo=誇り、Tecnico=技術、Ambicion=野心のすべてを兼ね備えた選手という意味でTOTAと呼ばれた[11][12]。2007-08シーズンのUEFAチャンピオンズリーグでは、決勝トーナメント1回戦のセビージャFC(スペイン)戦でヘディングシュートを決め、クラブ初の準々決勝進出に貢献。2009年4月12日に行われたガラタサライとのイスタンブール・ダービーではエムレ・アシクを引っ叩き、レッドカードを提示された上に5試合の出場停止処分を受けた[13]。それ以来、特にGenç Fenerbahçelilerなどのサポーターグループと強い結びつきがある[14][15]。2008-09シーズン終了後にはフェネルバフチェとの契約が満了し、SSラツィオACFフィオレンティーナASローマ(いずれもイタリア)、アヤックス・アムステルダム(オランダ)などがルガーノ獲得に動いたものの、フェネルバフチェとの4年間の新契約にサインした[16]

パリ・サンジェルマン

2011年8月27日、フランスパリ・サンジェルマンFCに移籍[17][18]。移籍金は300万ユーロ。しかし、2011-12シーズンは負傷やコンディション不良などの影響で12試合の出場に終わった[19]

マラガ

2013年1月21日、出場機会の減少からスペインマラガCFにシーズン終了までのレンタル移籍が決定。

WBA

2013年8月2日、ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンFCへ移籍[20]

ヘッケン

2015年3月26日、BKヘッケンに加入した[21]

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代表経歴

サンパウロFCに在籍していた2004年、ホルヘ・フォサーティ監督によってウルグアイ代表に初招集され、カールスバーグ・カップイラン戦でデビューした。公式戦デビューは2006 FIFAワールドカップ・南米予選パラグアイ戦であった[22]

その後レギュラーの座を獲得し、2006年のイングランド戦で初めてキャプテンマークを腕に巻いた。2007年のコパ・アメリカ2007ではメキシコに次ぐ4位となり、2010 FIFAワールドカップ・南米予選ではウルグアイ代表のキャプテンを務めた。この南米予選では全18試合に出場し、2008年6月14日のベネズエラ戦で挙げた代表初得点を含めて、計3得点を挙げた。大陸間プレーオフのコスタリカ戦ファーストレグでは決勝点となるアウェーゴールを決め、本大会進出に近づく勝利に貢献した。2010 FIFAワールドカップ本大会でもキャプテンを務め、6試合に先発出場。準々決勝のガーナ戦まではフル出場を続けていたものの、この試合の前半で負傷し途中交代した。続く準決勝のオランダ戦は欠場したが、3位決定戦のドイツ戦には復帰し先発出場。敗れはしたものの、ウルグアイの40年ぶりのベスト4進出の立役者となった。同大会では最優秀キャプテンに選出された[23]コパ・アメリカ2011でもキャプテンとして全6試合にフル出場。ウルグアイの6大会ぶりの優勝に貢献した。2011年10月7日、2014 FIFAワールドカップ・南米予選初戦のボリビア戦で、自身初となる1試合2得点を記録した。

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人物

既婚であり、3人の子どもがいる。長男はフェネルバフチェの下部組織に所属していた[24][25]。ディエゴと同じ11月2日生まれの次男、長女はルガーノがフェネルバフチェに在籍している時にイスタンブールで生まれた[26][27]。1980年代に活躍したウーゴ・デレオンや1990年代以降に活躍したパオロ・モンテーロが自身のヒーローであると語っている[28]NFL選手のチャド・オチョシンコと面識がある。

代表歴

出場大会

試合数

  • 国際Aマッチ 95試合 9得点(2003年-2014年)[29]
さらに見る ウルグアイ代表, 国際Aマッチ ...

得点

さらに見る #, 日時 ...
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タイトル

クラブ

ナシオナル
サンパウロ
フェネルバフチェ

代表

ウルグアイ代表

個人

脚注

外部リンク

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