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ピエールフランチェスコ・キリ

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ピエールフランチェスコ・キリ
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ピエールフランチェスコ・キリ (Pierfrancesco Chili, 1964年6月20日 - ) は、イタリアボローニャ出身の元モーターサイクルロードレースライダー。愛称は "フランキー" (Frankie)。ロードレース世界選手権スーパーバイク世界選手権で長年活躍し、2006年シーズンをもって現役を引退した。

概要 ピエールフランチェスコ・キリ, グランプリでの経歴 ...
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1990年日本GPにて
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経歴

要約
視点

500ccクラスにデビュー

キリは1982年にレースを始める。1985年にロードレースヨーロッパ選手権125ccクラスのチャンピオンを獲得する[1]と、翌1986年にはロベルト・ガリーナ率いるハーベー(HB)・スズキチームに抜擢され、いきなりロードレース世界選手権の最高峰500ccクラスにデビューすることになった。スズキは当時ワークス活動を休止しており、ヤマハホンダが優位に立っていたが、キリはスズキ勢トップとなるシリーズランキング10位に入る活躍を見せた。

1987年からチームはマシンをホンダにスイッチした。最新型のV型4気筒マシン・NSR500ではなく、V型3気筒NS500だった。パワー不足に苦しみながらも、開幕戦鈴鹿で4位入賞、第8戦ル・マンでは2位表彰台に立つなどの活躍を見せ、47ポイントを獲得、シリーズランキングでは8位に食い込んだ。

1988年にはNSR500を手に入れ、コンスタントに上位入賞が望めるようになった。表彰台の獲得こそ叶わなかったものの、110ポイントを獲得、シリーズランキングは9位だった。

GP初優勝

1989年はキリにとって500ccクラスのベストシーズンとなった。第5戦ミサノで初優勝を飾ったが、これは複雑な状況下で得た勝利だった。

レース前、ライダーたちはミサノの路面が非常にスリッピーであり、雨が降れば非常に危険だと述べていた。路面はドライだったが暗雲が立ちこめる中、ケビン・シュワンツをポールポジションにレースはスタートした。キリはうまくスタートを決めてホールショットを奪ったが、その後はシュワンツ、ウェイン・レイニークリスチャン・サロンの3名がリードする展開となった。間もなく雨が降り出したため、シュワンツは手を挙げてアピール、レースは中断された。

トップライダーたちはミーティングを開き、ウェットコンディションでのレース再開の前にプラクティスセッションが必要だとの結論を出した。しかしオーガナイザーはこの要求を受け入れなかったため、ワークスライダーはほぼ全員がレースをボイコットすることになった。地元イタリアのキリは他のライダーを説得したが出場を得られず、キリの所属するハーベー・チームだけはレースへの出場を決定した。

ハーベー・チームと、下位のプライベーターによる2ヒート目のレースが再開された。どしゃ降りのコンディションの中、スタンドからはエディー・ローソンが皮肉たっぷりに声援を送り、クリスチャン・サロンが投げキッスを送るという奇妙な状況となったが、キリは後続に30秒以上の差を付けて優勝を遂げた。

この年の表彰台はこのレースだけとなったが、上位での完走をコンスタントに続け、シリーズランキングでは6位に入った。

1990年はLa Cinq ROCチームに移籍し、第2戦ラグナ・セカでは3位表彰台を獲得するなど活躍していたが、第9戦スパでの転倒で腕を骨折し、シーズン後半に長期欠場を余儀なくされ、シリーズランキングは11位に終わった。

250ccクラスへ

1991年シーズンより、キリは250ccクラスに戦いの場を移し、バレージ・レーシングチームでアプリリアを駆ることになった。第9戦アッセンでクラス初優勝を遂げ、シリーズランキングでは7位に入った。

1992年はキリにとってGPでのベストシーズンとなった。新たにマッシミリアーノ・ビアッジをチームメイトに迎えたこのシーズン、キリはシーズン3勝を挙げ、ルカ・カダローラロリス・レジアーニに次ぐシリーズランキング3位の成績を収めた。ちなみにチームメイトのビアッジは1勝でシリーズ5位だった。またこの年の第4戦ヘレスでは、レースが残り1周の時点でキリは2位を走行していたが、周回数を勘違いしてしまい、ファイナルラップなのにスローダウンしてガッツポーズを見せてしまった。この痛恨のミスによって、キリはほぼ手中に収めていた表彰台を逃してしまうことになった。

1993年、チームはマシンをヤマハにスイッチし、チームメイトには前年の全日本ロードレース選手権チャンピオンのルーキー、原田哲也を迎え、チーム名は「テルコール・ヤマハ・バレージ」として、TZ250Mを駆ってシーズンを戦った。原田が4勝を挙げてチャンピオンを獲得した一方、キリは安定してポイント圏内での完走を続けたものの、比較的下位でのフィニッシュが多く、シリーズランキングは10位に終わった。

1年間の休養の後、1995年にはワイルドカード枠でムジェロでの1戦のみ、カジバを駆って500ccクラスのレースに参戦した。3番グリッドからスタートし、10位で完走を果たしたこのレースが、キリのGPでの最後のレースとなった。

スーパーバイク世界選手権

また1995年からは、スーパーバイク世界選手権に、Gattoloneチームでドゥカティ・916を駆って参戦を開始した。デビューイヤーには、第4戦モンツァの第2レースで初優勝を果たし、シリーズランキングでは8位に入った。1996年には2勝を挙げてシリーズ6位、1997年は3勝でシリーズ7位となった。

1998年にはワークスチームドゥカティ・コルセに移籍を果たし、この年がキリにとってのSBKベストシーズンとなった。シーズン5勝を挙げ、シリーズランキングでは4位を記録した。またこの年の第9戦アッセンでの第2レースでは、ファイナルラップに同じドゥカティ(チームは別)のカール・フォガティにコーナーでインに飛び込まれ、キリは転倒してしまった。これに腹を立てたキリはレース後にピットでフォガティに殴りかかる騒動を起こしてしまった。

1999年からはアルスター・スズキチームに移籍し、GSX-R750を駆ることになった。キリはシリーズ2勝を挙げ、スズキとしては過去最高となるシリーズ6位という成績を残した。翌2000年にはさらに成績を伸ばし、自身2度目となるシリーズ4位となった。2001年にはライバル勢とのマシンのパフォーマンスの差に苦しみながらも、1勝を挙げてシリーズ7位となった。

2002年にはNCRチームに移籍し、再びドゥカティのマシンを駆ることになった。シーズン前半は怪我による欠場などでノーポイントのレースが続き、中盤には持ち直してなんとかランキング8位には入ったものの、デビュー以来初めてとなる1勝もできなかったシーズンとなった。

2003年にはPSG-1チームに移籍したが、マシンは前年と同じドゥカティ998RSだった。移籍初年度はシリーズ7位、2004年にキリは40歳を迎えたが、1勝を挙げてシリーズ5位という安定した成績を残した。

2005年にはKlaffiホンダチームに移籍し、20歳年下のルーキー、マックス・ノイキルヒナーをチームメイトにCBR1000RRを駆ることになった。安定してトップ10圏内での完走を続け、チームメイトより上位となるシリーズ10位でシーズンを終えた。

現役引退

2006年には D.F.X. Treme チームに移籍。マシンは引き続きCBR1000RRで、ミシェル・ファブリツィオのチームメイトを務めた。4月にミサノで行われた公式テストで、キリは骨盤と肋骨を折る重傷を負ってしまった[2]。3戦欠場した後にレース復帰を果たしたが、第8戦ブランズハッチで、42歳のキリはこのシーズン限りでの現役引退を発表した[3]

20年以上の間、キリは世界の第一線で戦い続け、スーパーバイク世界選手権で樹立した276レース出走という記録は、引退当時の最多記録だった(のちにトロイ・コーサーが記録を更新している)。

2009年現在、キリはガンダリーニ・レーシングのスポーティングディレクターを務め、マシンはドゥカティ・1098R、ライダーにヤコブ・シュムルツブレンダン・ロバーツという体制でスーパーバイク世界選手権に参戦している[4]

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戦績

要約
視点

ロードレース世界選手権

1969年から1987年までのポイントシステム

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1988年から1992年までのポイントシステム

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1993年以降のポイントシステム

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(key) (太字ポールポジション斜体ファステストラップ

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スーパーバイク世界選手権

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脚注

外部リンク

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