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ル・クラスィク

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ル・クラスィク
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ル・クラスィクフランス語: Le Classique 英語: The Classic)は、フランスオリンピック・マルセイユパリ・サンジェルマンFCの間で行われるサッカーの試合のことを指す。英語風にフランス・ダービー(France Derby)と呼ばれることもある。

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2006年のクープ・ドゥ・フランス決勝戦で両チームのサポーターが作り上げたコレオグラフィ(左:オリンピック・マルセイユ、右:パリ・サンジェルマン)

概要

1899年創立のオリンピック・マルセイユは国内3位のリーグ・アン優勝9度を誇るフランス屈指の名門クラブであり、パリ・サンジェルマンFCは歴史は浅いものの最多11度のリーグ・アン優勝と、14度のクープ・ドゥ・フランス優勝を誇る強豪クラブである。この2クラブはフランス南部の大都市マルセイユとフランスの首都パリに本拠地を置き、文化・民族性などが大きく異なる2都市の対立意識がダービーの根底にある[1]。試合におけるライバル意識の他に、互いのクラブへの嫌悪感情はピッチの外まで広がっている。

1980年代後半、マルセイユのベルナール・タピ会長がパリ・サンジェルマンとの対戦をスペインのエル・クラシコに倣って「ル・クラスィク」と名付け、メディアに大きく取り上げられるようになった[1]。1990年代前半にはパリ・サンジェルマンが黄金期を迎え、1990年代後半から2000年代前半にはマルセイユが欧州カップ戦で躍進したことから、順位表の上位に位置する両者の対戦はいっそう過熱することになった。ダービー当日には普段の何倍もの警備隊が配置され、スタジアム周辺は緊迫した雰囲気が漂う[1]

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ホームスタジアム

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出来事

ダービー時の暴動などで逮捕者が出ることは珍しくなく、これまでにゆうに100人を越える数の両軍サポーターが逮捕されている。サポーターや警官が負傷する事件もたびたびおこり、2010年には死者が出ている。

  • 1988-89シーズンのリーグ・アンは34節を終えてパリ・サンジェルマンがマルセイユに勝ち点1差をつけて首位に立っていた。第35節のフランスダービーは試合終盤まで0-0の白熱した試合が続いたが、試合終了直前のゴールでマルセイユが勝利し、首位に浮上して勢いづいたマルセイユは17シーズンぶりのリーグ戦優勝を果たした[2]
  • 2005-06シーズン第29節、パリ・サンジェルマンのホームで開催されたフランスダービーではセキュリティ上の問題からアウェーサポーターへのチケット販売が制限され、これに反発したマルセイユはパリにリザーブチームを送り込んだ[2]。パリ・サンジェルマンにとってはホームの利・経験の差などの有利点があったにもかかわらず、試合は0-0の引き分けに終わった。その後、両クラブは勝ち点1ずつを剥奪された[2]
  • 2009年後半は新型インフルエンザがフランスでも流行した。2009-10シーズン第10節のフランスダービーのためにパリから多くのファンがマルセイユを訪れたが、パリで新型インフルエンザの3人目の感染者が出たことから、試合開始わずか6時間前に試合の延期が発表された[3][2]。この決定に激怒したパリ・サンジェルマンのファンが暴動を起こし、16人が逮捕される事態になった[2]。延期された試合を行うに当たって、パリ・サンジェルマンFCはサポーターの暴走を懸念し、列車を借り切って700人のサポーターをマルセイユまで運んだ[4]
  • 2010年2月28日にはダービー時にはパリ・サンジェルマンFCのサポーターにひとりが昏睡状態に陥り、このサポーターは3月18日に死亡した。
  • 2020-21シーズン第3節では、試合終了間際にボールの競り合いで激怒したパレデスがベネデットを突き倒したのをきっかけに、両チームの選手が乱闘となり、両チーム合わせて4人が退場。さらに、ネイマールが相手の頭を叩いた行為で退場処分となり、合計で5人が退場するという荒れた試合となった。試合はマルセイユが0-1で勝利した。尚、マルセイユがパリ・サンジェルマンFCに勝利したのは2011年11月27日以来9年ぶりのことである。

人気の比較

2009年8月にル・ポイント(Le Point)によって行われた調査によると、オリンピック・マルセイユはフランス国内の全サッカーファンの内20%のサポーターを持つクラブである。パリ・サンジェルマンFCオリンピック・リヨンが11%でマルセイユに続き、FCジロンダン・ボルドーの10%が続いている。マルセイユは世界で最も人気のあるフランスのクラブであり、パリ・サンジェルマンFCとリヨンが続いている。2010年4月の調べによると、財政面の豊かさでマルセイユとパリ・サンジェルマンを凌ぐフランスのクラブはリヨンだけである(なおパリ・サンジェルマンはその後カタールの投資ファンド所有(実質カタール王族所有)となり、マンチェスター・シティと並び世界1位2位を争う大金持ちクラブにステップアップ。あり余るオイルマネーを背景にチャンピオンズ・リーグ優勝を目指して凄まじい補強を行っている)。このふたつのクラブはヨーロッパのビッグクラブが集まって結成されたG-14の設立時からのメンバーであった。2008-09シーズンの平均観客数を見ると、マルセイユが52,276人でリーグ・アン最高の数値を記録し、パリ・サンジェルマンFCが40,902人でマルセイユに続いている。

1994年にはIFFHS世界クラブランキングでパリ・サンジェルマンFCが1位となり、1998年にはUEFAチームランキングで1位となった。パリ・サンジェルマンFCはこれらのランキングで1位となったフランス唯一のクラブであるが、1991年にはマルセイユがUEFAチームランキングで3位となっている。1993年から1997年まで、パリ・サンジェルマンFCは世界クラブランキングでトップ10入りしている。

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戦績

要約
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全公式試合.
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統計

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移籍

要約
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両クラブでプレーした経験のある選手がそれぞれのファンから敵意を持たれるのはもっともなことであるが、両クラブ間で直接移籍することはより強い反逆行為とみなされる。この“反逆行為”は移籍金を伴っての獲得や契約満了による獲得、トレードなどで起こりうる。トレードの例としては、1990年にフランス期待の若手だったJocelyn AnglomaがBernard Pardo、Bruno Germain、Laurent Fournierとの交換でパリ・サンジェルマンFCからマルセイユに移籍したことがあげられる。

2004年にはパリ・サンジェルマンFCの副キャプテンであったフレデリック・デウが、UEFAチャンピオンズリーグでプレーする機会を捨ててまでマルセイユに移籍した。2005年にはパリ・サンジェルマンFCで監督の交代があり、それによってロリック・カナの出場機会が減少したことから、カナはマルセイユに移籍した。2006年にはモデスト・エムバミが、2009年にはガブリエル・エインセが、どちらもオリンピック・マルセイユでは絶対にプレーしないと言っていたにもかかわらずマルセイユへの移籍を果たしている。

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ロリック・カナ
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ガブリエル・エインセ
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ペギー・リュインドゥラ
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クロード・マケレレ
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脚注

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