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ヴィクトル・ズプコフ

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ヴィクトル・ズプコフ
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ヴィクトル・アレクセーエヴィチ・ズプコフロシア語: Ви́ктор Алексе́евич Зубко́в、ラテン文字転写:Viktor Alekseevich Zubkov1941年9月15日 - )は、ロシア政治家ウラジーミル・プーチン政権で第8代ロシア連邦首相、ロシア連邦第一副首相を務めた。娘は第5代ロシア連邦国防相アナトーリー・セルジュコフと結婚した[1]

概要 生年月日, 出生地 ...
概要 軍歴, 所属組織 ...
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概要

2006年に行われた政治を専門とした調査で、ズプコフはロシアで影響力を持つ政治家として84番目に位置付けられた[2]。プーチン政権で首相第一副首相を務め、プーチン側近グループの「サンクト派」(レニングラード組)に近い政治家である。

経歴

要約
視点

生い立ち

1941年9月15日ソビエト連邦ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国スヴェルドロフスク州クシュヴィンスキー地区ロシア語版アルバーツ村ロシア語版に誕生する。なおアルバーツ村は1969年1月9日に、過疎化の進行ため廃村となり、現在はスヴェルドロフスク州のヴェルフナヤ・トゥーラ市ロシア語版の一部となっている。

ズプコフの家庭は第二次世界大戦後、ムルマンスク州モンチェゴル地区ロシア語版トロストニキ村に戻り、ズプコフは同地の第5学校を卒業した[3]。なお現在トロストニキ村は存在しない[4]

ソ連時代の経歴

1958年から1960年まで、モンチェゴル地区にある鉱山や修理機械工場の整備工を務めた。1960年から1965年までレニングラード農業大学経済学部に通学する。1965年から1966年までソ連軍に徴兵されて兵役に就き、中尉の階級でプーシキン市に勤務する[5]。後に1967年から1985年までレニングラード州コルホーズ(集団農場)で働く。この間にソビエト連邦共産党に入党し、1970年から1981年まで、レニングラード州の「ラズドリーエ」国営農場の所長を務めた。1985年にはレニングラード州の共産党機関で勤務し、同年から1986年まで、プリオゼルスク市人民代議員大会執行委員会委員長を務めた。1986年から1987年にかけて、同市の共産党委員会第一書記を務めた[6]。1987年から1989年まで、レニングラード州共産党委員会農業部長を務め、1989年に同州共産党委員会第一副議長に選出されるが、1991年8月19日ソ連8月クーデターによりソ連邦共産党は活動を停止させられた。

サンクトペテルブルクでの経歴

1992年1月から1993年11月にかけて、サンクトペテルブルク市対外関係委員会第一副議長を務めた。同委員会議長はウラジーミル・プーチンであった。1993年11月3日から1998年11月30日までロシア連邦国家税務局副局長、サンクトペテルブルク国税検査部部長、サンクトペテルブルク国税監査委員会副議長を兼務した。1995年から政権与党でたる我が家ロシアに所属している。

1998年12月プリマコフ内閣で国税庁が税務省に再編されてズプコフのポストは廃止されたが、間も無く税務省サンクトペテルブルク税務部長に任命された。1999年7月23日北西連邦管区担当税務次官に就任し、さらに幾日も経たずサンクトペテルブルク及びレニングラード州税務部長となった。

その後レニングラード州知事選挙に出馬し、1999年8月12日に候補者として登録された。選挙戦では与党であり、自身も所属していた「統一ロシア語版英語版」のボリス・グルイズロフ(後にロシア連邦内務相・下院議長・統一ロシア党首)の支持を得たが、9月19日に対立候補のヴァレリー・セルジュコフに敗北した。

2001年11月5日に税務省の職責を解任されると、今度は財務第一次官兼金融監督委員会議長に任命され、マネー・ロンダリング対策に当たった。2004年3月16日ミハイル・カシヤノフ首相が解任されると、金融監督委員会はロシア連邦財務省の組織に格下げされて連邦金融監督庁に再編されたが、ズプコフは次のミハイル・フラトコフ内閣にて2007年9月12日まで金融監督庁長官に留まった。

首相

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2014年ソチオリンピック2014年ソチパラリンピック大会の準備・実施に関する評議会に参加するズプコフ首相とプーチン大統領

2007年9月12日、プーチンは次期首相の候補としてズプコフの名前を挙げ、9月14日ロシア連邦議会国家院(下院)は賛成381票、反対47票、棄権8票で承認した[7]。同日にウラジーミル・プーチン大統領は全閣僚を解任し、ズプコフはプーチンによってミハイル・フラトコフの後任の首相に指名された[8][9]。なおズプコフは2002年から統一ロシアに所属したが、首相に任命された時点では無所属であった[10]

首相としてのズプコフが最初に行った人事は2007年9月18日付けの決定であり、アナトーリー・セルジュコフ国防相(ズプコフの娘婿)の縁故関係を理由に辞任を要請したことであったが[11]、この辞任は受理されなかった[12]

2007年10月4日から2012年5月25日まで、ロシア連邦安全保障会議の常任議員を務めた[13]。同年10月15日から2008年5月27日まで、ロシア・ベラルーシ連合国家閣僚会議議長を務めた[14]

第一副首相及び首相代行

2008年5月7日のプーチン大統領退任に伴い内閣は総辞職したが、5月12日に新たに首相となったプーチンによって、農業・林業・漁業の発展担当の第一副首相に任命された。

2008年6月27日にはロシア国営エネルギー専売公社であるガスプロムの会長に指名され第一副首相と兼任する。同年12月12日から2011年8月19日まで[15]、株式会社「ロサグロリーシングロシア語版」の会長を務めた[16]

2010年1月11日から2012年5月まで、経済発展統合に関する政府合同委員会副委員長、関税・非関税規制、対外貿易における保護措置に関する委員会委員長を務めた[17]

2012年5月7日にプーチン首相が大統領に再就任して首相職が空席となったことに伴い、後任のドミートリー・メドヴェージェフの首相就任が議会に承認されるまでの短期間に首相代行を務めた。

その後の経歴

2012年5月30日より、ガス輸出国フォーラムとの協力に関する特別代表を務める[18]

2013年7月から2014年2月まで、ガスプロムの株式の約0.0001%を保有していたが、クリミア併合を背景に株価が大幅に下落する直前に売却した[19]

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制裁

2022年10月27日ロシアのウクライナ侵攻により、ズプコフは「ロシアによるウクライナへの無差別かつ不当な侵攻の促進または支援したとして、カナダの制裁リストに追加された[20][21][22]2023年2月24日にはイギリスの制裁対象となった[23][24][25]

パーソナル

ズプコフはソ連時代には共産党官僚として労働赤旗勲章労働功労者勲章ロシア語版 などの勲章を授与され、ソ連崩壊後のロシアでは祖国貢献勲章ロシア語版アレクサンドル・ネフスキー勲章ロシア語版などの勲章やロシア連邦名誉経済学者、レニングラード州名誉市民、プリオゼルスク市の名誉市民などの称号も保持している。兵役時代の最終階級は中尉であり、文民階級としては第1級ロシア連邦現役国務参事官ロシア語版である。

脚注

外部リンク

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