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万里小路冬房

室町時代中期の公卿。内大臣・万里小路時房の子。従一位・准大臣。万里小路家8代当主。 ウィキペディアから

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万里小路 冬房(までのこうじ ふゆふさ)は、室町時代中期の公卿内大臣万里小路時房の子。官位従一位准大臣万里小路家8代当主。

概要 凡例万里小路 冬房, 時代 ...

幼年より仏教への帰依が深く[1]応仁の乱を機に出家して、最期は補陀落渡海を遂げた。

経歴

万里小路時房の子として誕生。初名は成房

永享年間に叙爵された後、右兵衛佐弁官五位蔵人を歴任。文安6年(1449年)3月蔵人頭を兼ね、宝徳2年(1450年)4月参議に任じられて公卿となる。同3年(1451年従三位権中納言に叙任され、武家伝奏を兼務。享徳元年(1452年)8月正三位康正元年(1455年)8月従二位に進む。長禄2年(1458年大宰権帥を兼ね、権大納言に任じられたが、寛正5年(1464年)1月に辞退。翌年(1465年)1月正二位に叙され、12月後土御門天皇即位礼伝奏を務めた。

応仁元年(1467年)9月准大臣宣下を蒙り、従一位に叙されるも、10月後花園上皇の落飾に殉じて出家。法名を弘房浄土宗)または弘円真言宗)と号した。予てから勅許を得て東寺に入壇していて、応仁の乱で在所を焼かれた際は比叡山北谷に隠棲したという。出家後の足取りは不明だが、何の因果か「菩提心」を発して、文明7年(1475年11月22日[2]紀伊国熊野浦から補陀落渡海に出航した。享年53。

万里小路家では冬房の出家に先立ち、甘露寺家から春房を迎えていたが、文明3年(1471年)に突如出奔したため、改めて勧修寺家から賢房を養子に迎えて存続させている[3]

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系譜

脚注

参考文献

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