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武家伝奏
室町時代から江戸時代にかけての朝廷における職名の一つ ウィキペディアから
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武家伝奏(ぶけてんそう)は、室町時代から江戸時代にかけての朝廷における職名の一つ。公卿が任じられ、武家の奏請を朝廷に取り次ぐ役目を果たした。
概要
建武の新政の際に置かれ、室町幕府がこれを制度化した。役料はそれぞれ250俵が与えられ、この他に官位禄物の配当があった。定員は江戸時代には2名。
沿革
室町時代
室町時代には武家伝奏が改元や任官を幕府に通告し、公武間の意思疎通を図った。また、足利義満以後武家伝奏を経由して室町殿の政治的要求を朝廷に伝える役目を果たした。ただし、武家伝奏の形態が固まったのは戦国時代の永正年間以後である。また、室町幕府においては足利将軍家の外戚として有力公家である日野家・近衛家の両家があり、こうした家が朝廷と幕府の仲介に立つ場合もあった。
江戸時代
江戸時代には学問に優れて弁舌が巧みな大納言級の公卿が伝奏に任じられ、就任の際には京都所司代より血判提出を求められた。幕府に対する勅使には武家伝奏が任じられ、幕府による朝政への介入が強まるようになって以降は摂関家・議奏との合議で朝廷の運営に関与するようになった。この時代、伝奏の任命には幕府の許可が必要であるが、任命方法は同じ江戸時代でも変遷があり、江戸前期は幕府が人選を決定し、朝廷は追認するのみであった。中期ごろから朝廷が人選し、幕府が基本的に許可を出す関係へと移行した。幕末には、朝廷の人選に対する幕府の拒否権がなくなり、事後報告を受けるのみとなった。前期は幕府の朝廷抑制政策のため、中期ごろは誰が務めても大差がなくなり幕府にとって人選の利益が薄くなってきたため、幕末は朝廷・幕府間の権力関係が逆転したためと考えられる。
王政復古の大号令に伴い廃止され[1]、これまでの武家伝奏の職務は差し当たり参与が取り扱うことになり、参与役所を設けて堂上の参与5人がこれを担当した[2]。
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武家伝奏の一覧
要約
視点
補任順に配列することを原則としたが、室町時代末期から織豊政権期にかけての伝奏についてはなお検討の余地がある。
以下、一覧中の(再)は再任、(臨)は臨時代行を示す。
室町時代
- 万里小路嗣房
- 広橋仲光
- 日野資教
- 裏松重光
- 広橋兼宣
- 甘露寺清長 - 応永20年5月20日(1413年6月18日)任
- 松木宗量 - 応永20年6月29日(1413年7月26日)任
- 清閑寺家房 - 応永20年7月23日(1413年8月19日)任
- 勧修寺経興
- 広橋親光 - 応永35年2月23日(1428年3月9日)任
- 万里小路時房 - 応永35年2月23日(1428年3月9日)任
- 中山定親 - 永享8年10月17日(1436年11月25日)任
- 万里小路時房(再) - 嘉吉3年11月22日(1443年12月13日)任
- 正親町三条実雅 - 嘉吉3年11月22日(1443年12月13日)任
- 中山親通 - 文安5年(1448年)3月末任
- 万里小路冬房 - 宝徳3年3月5日(1451年4月6日)任
- 広橋綱光
- 勧修寺教秀 - 文明3年4月29日(1471年5月19日)任
- 広橋兼顕 - 文明9年閏1月5日(1477年2月18日)任
- 勧修寺政顕 - 明応5年7月6日(1496年8月14日)任
- 勧修寺尚顕(臨) - 永正元年7月2日(1504年8月11日)任
- 勧修寺尚顕 - 永正5年6月24日(1508年7月21日)任
- 広橋守光 - 永正6年6月21日(1509年7月8日)任
- 広橋兼秀 - 大永6年9月23日(1526年10月28日)任
- 勧修寺尹豊
- 広橋国光
- 勧修寺晴秀(臨) - 永禄8年(1565年)?任
- 万里小路惟房 - 永禄11年(1568年)?任
- 飛鳥井雅教 - 永禄11年(1568年)?任
織豊時代
江戸時代
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脚注
参考文献
関連項目
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