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中西武信
日本の騎手 ウィキペディアから
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中西 武信(なかにし たけのぶ、1941年5月27日 - )は、宮城県出身の元騎手・調教助手。
経歴
要約
視点
1960年代
1960年3月に京都・高橋直三厩舎からデビューし、加賀武見・吉岡八郎と同期となる[1]。
同5日の阪神第3競走障害5歳以上オープン・タカチカラで初騎乗初勝利[3]を挙げ、1959年の前田禎・湯浅三郎に続いて2年連続での達成となった[4]。タカチカラではアラブ大障害(秋)で平地を含む重賞初騎乗[5]で重賞初勝利[6]を挙げ、同馬は秋連覇で春秋制覇[7]となり、新人年の障害重賞勝利は1959年の瀬戸口勉、同年の加賀に続く3人目となった[5]。
8月20日・21日の中京では初の2日連続勝利[6]を挙げ、1年目の1960年から初の2桁勝利となる15勝[8]をマークし、1970年まで11年連続2桁勝利[8]を記録。
2年目の1961年では6月10日の阪神で初の1日2勝[9]を挙げ、京都大障害(秋)を橋本正晴厩舎のリユウゲツで制し[10]、自己最多で自身唯一の20勝台となる21勝[8]をマーク。
1970年代
1970年には加藤清一厩舎に移籍し、1971年には自身初の1桁勝利となる8勝[8]に終わる。
1973年からは平地の騎乗に専念し、1976年には松田正弘厩舎に移籍するが自己最低の0勝[8]、1977年には7月9日の札幌第11競走4歳以上300万下・ヒーローセブンで1年ぶりの勝利[13]を挙げるが同年はこの1勝[8]、1978年は再び0勝[8]に終わる。
1977年11月5日の京都第9競走4歳以上300万下では第4コーナー中間点でエスプレッソローマが先行馬に触れて落馬し、その後を6頭の馬が先に転倒した馬に触れて落馬していったが、中西はタカノハムソウで7頭落馬事故に巻き込まれて頭部外傷・腰部打撲を負った。
松田厩舎では佐藤正雄と共に主戦騎手として起用され、中西と佐藤以外は乗せず[14]、1979年には10年ぶりで最後の2桁となる11勝[8]をマーク。
1979年からはサンエムフォーマとのコンビで活躍し[15]、1980年には中京記念で5着[15]、1981年にはマイラーズカップでカツラノハイセイコ・ニチドウアラシ・オペックホースに次ぐと同時にグレートタイタン・ラフォンテースを抑えての5着[16]、スワンステークスでは3着[15]に入った。
1980年代
1982年と1983年にはサンエムヒーローとのコンビで活躍し、1982年には京都で行われた小倉3歳ステークスで3着、10月16日の京都第8競走りんどう特別ではカツラギエースの3着、1983年にはシンザン記念でメジロモンスニーから5馬身差2着[17]に入った[18]。
1986年2月23日の阪神第10競走千里山特別では15頭中15番人気のアドバンスボーイで逃げ切り、最後の騎乗を勝利で飾って引退[19]。
引退後は調教助手[2]。
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騎手成績
- 主な騎乗馬
- タカチカラ(1960年アラブ大障害 (秋))
- リユウゲツ(1961年京都大障害 (秋))
- ダイシンフジ(1965年京都大障害 (秋))
脚注
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