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久保猛夫
教育者、政治家 ウィキペディアから
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久保 猛夫(くぼ たけお、1900年(明治33年)2月1日[1] - 1993年(平成5年)10月28日[1])は、昭和期の教育者、政治家。衆議院議員。

経歴
長崎県出身[1][2]。1919年(大正8年)長崎県師範学校を卒業した[1][2]。
長崎市勝山小学校訓導、北大浦小学校長、長崎県視学、長崎市渕国民学校長、地方事務官などを歴任した[2]。その他、長崎県教育会員・評議員・幹事、長崎市教育会員・評議員・幹事、大日本教育会長崎県支部参与などを務めた[2]。1945年(昭和20年)8月、長崎市への原子爆弾投下により被爆した[1]。
1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で長崎県全県区に無所属で出馬して初当選[3]。1947年(昭和22年)犬養健らと民主党の結党に参画[1]。同年4月の第23回総選挙で長崎県第1区に民主党公認で出馬して再選され[4]、衆議院議員に連続2期在任した[1][2]。この間、民主党政調会文教委員長などを務め、教育基本法の制定に尽力した[1][2]。その後、第24回総選挙に立候補したが次点で落選した[5]。
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著作
- 『この事実をみよ : 核の冬を生きのこるために』田中書店、1987年。
脚注
参考文献
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