トップQs
タイムライン
チャット
視点

井上梅次

1923-2010, 映画監督、脚本家、作詞家。 ウィキペディアから

井上梅次
Remove ads

井上 梅次(いのうえ うめつぐ、1923年5月31日 - 2010年2月11日)は、日本映画監督脚本家作詞家である。

概要 いのうえ うめつぐ 井上 梅次, 本名 ...

来歴

京都市生まれ。京都市立第一商業学校を卒業後、慶應義塾大学経済学部に入学するも、1943年応召、1945年に復学して1947年に卒業。在学中から出入りしていた新東宝に正式に入社[2]。自作の脚本を盛んに売り込み、1952年、わずか5年で『恋の応援団長』で監督に昇進。雪村いづみの音楽映画などを手掛けた。

1955年日活に移籍。当時売り出し中の石原裕次郎の映画を担当し、『嵐を呼ぶ男』が大ヒット。裕次郎は大スターとしての地位を確立した。

1960年フリーになり、新東宝、日活以外の邦画四社で活躍。井上は邦画6社で監督を経験した。東宝では傍系の宝塚映画のみで、ずっと本体の砧撮影所での劇場映画がなかったが、これも1983年に実現した。東西両撮影所を持つ大映、東映、松竹ではいずれも両方で撮っているほか、ドキュメンタリーながら東宝傍系の東京映画でも1971年に監督を経験。戦後日本映画で長期間一般劇場映画を製作し続けた大手6社系列11の撮影所すべてで監督経験を有する記録となった。このうち4つは既に閉鎖されているので絶後の記録となる。その他、香港ショウ・ブラザーズでも17本の映画を撮った。1965年以降、日本ではほぼ松竹大船撮影所に腰を据えた形となり、テレビでの代表作「江戸川乱歩の美女シリーズ」に結実した。

邦画界全盛期にプログラムピクチャーを手掛けていたため、その監督作品数は110本を超える。この数は戦後の映画監督としては、ピンク映画系の監督陣を除けば日本一である。

劇場用映画だけでなく、テレビドラマの監督も多数務め(日本の映画監督としては初めて、スタジオ撮影によるテレビドラマを監督した)、テレビドラマの監督作品数は150本を超える。

2010年2月11日脳出血で死去[1]。同年4月13日にはお別れの会が営まれ、600人が出席した[3]

Remove ads

人物・エピソード

Thumb
井上と妻の月丘夢路。キネマ旬報社『キネマ旬報』第237号(1959)より。
  • 日本国内に留まらず、1960年代から1970年代香港でも何作もアイドル映画の監督を務めており、東南アジアの映画や芸能の発展にも功績を残し、「早撮り」「職人監督」の国際的評価を得た。
  • 井上の下で助監督を務めた湯浅憲明によると、「映画監督は『一つのシーンを撮るのにどれだけの費用や時間がかかるか』の計算が出来なければならない」が持論であり、当初のイメージ通り撮影することが予算や時間の制約で無理と判ると、即座に制約の中で可能なイメージを追求する柔軟性を持っていた。湯浅は大映初の特撮怪獣映画『大怪獣ガメラ』を監督した際の、映画の組み立て理論においてこれが大いに役立ったとして、「『大怪獣ガメラ』の陰の産みの親は井上先生だ」と回顧している[9]
  • 大学に招かれ講演した際、テレフィーチャー「江戸川乱歩の美女シリーズ」について「大事なことは(視聴者にチャンネルを変えさせないよう)9時55分に女の裸を出すことです」と述べた[要出典]。このシリーズでは計19作品を手がけ、その全作が30年以上を経てなおDVD販売されるなど、数々の劇場用映画を上回る人気を保つ結果となった。事実、裸や猟奇描写にとどまらず、ケレン味と遊びたっぷりの演出の数々で井上の作風を伝えるものとなっている。
Remove ads

監督作品

Thumb
ジャズ娘乾杯』(1955年)
Thumb
『緑はるかに』(1955年)

映画

テレビドラマ

Remove ads

脚本作品

脚注

関連出版

関連項目

外部リンク

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Remove ads