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今園国映

日本の華族 (1851-1893) ウィキペディアから

今園国映
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今園 国映(いまぞの くにてる[1]嘉永4年5月25日1851年6月24日) - 明治26年(1893年4月12日)は、日本の華族坊城俊政の次男で宮内大輔芝山国典養子。興福寺聖賢院住職[2]

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今園国映

経歴

文化2年(1862年)仏門に入り、奈良興福寺塔頭賢聖院の法嗣として入り、慶応4年(1868年)正月に同院を相続した。しかし同年4月に堂上家出身の門跡および諸院家は還俗を命ぜられ、明治2年11月華族に列し今園家を創建した。1874年(明治7年)から1892年(明治25年)まで、土師神社(現道明寺天満宮)の宮司を務めた。1875年(明治8年)華族となり、1884年(明治17年)7月8日、男爵を叙爵した[3][注釈 1]

1891年(明治24年)12月19日、貴族院男爵議員に選出され[4]、死去するまで在任した[5][6]。墓所は金戒光明寺

親族

  • 妻セイ(1859年年生)大阪士族・高瀧小藤治(小藤太)の娘。[2][7][8]
  • 長男 今園国貞(貴族院男爵議員)[9] 
  • 二男 紀俊忠(男爵紀俊秀娘富美子婿)
  • 娘智子(1877年生)男爵有馬頼多と離婚後、黒田直綱の妻となる。有馬との娘・千賀子は離婚後今園家が引き取って祖母セイの養子となり、のち松岡一衛に嫁ぐ。
  • 娘文子(1889年生)子爵竹内惟忠の弟・竹内茂(1883年生)の妻[2][10]

脚注

参考文献

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関連項目

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