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堂上家

公家の家格の一つ ウィキペディアから

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堂上家(とうしょうけ、どうじょうけ)は、公家家格の一つ。御所清涼殿南廂にある殿上間(てんじょうのま)に昇殿する資格を世襲した家柄。また、公卿になれる家柄。同時に上級貴族とも呼ばれる。江戸時代末期には137家があった。

これ以外の中流・下級貴族の家柄は地下家と呼ばれた。

概要

平安時代中期に昇殿の制が始まり、院政期には公卿となることが出来る家柄が固定されるようになったため、公家の中で昇殿を許される家柄とこれを許されない家柄、公卿になれる家柄となれない家柄に分かれ、前者を堂上家、後者を地下家(じげけ)とする区分が成立した。一般的に、公卿になると昇殿が許されたが、まれに地下の公卿も存在した。

広義では公卿になることができる摂家清華家大臣家羽林家名家半家の総称であるが、狭義では上記のうち摂家・清華家・大臣家を除いた羽林家以下のみを指し、平堂上平堂上家ひらとうしょうけ)とも呼ばれた[1]

南北朝時代以降、堂上家のなかに時の天皇との親疎により内々外様の区別が生じた。出勤した時の御所内での詰め所も異なり、天皇から受ける処遇も違った。

また、安土桃山時代天正年間(1573年 - 1591年)までに成立していた64家を旧家、それ以降新規に設立された家を新家と区分している。

1884年(明治17年)7月7日、平堂上のうち、大納言まで宣任の例が多い家[2]伯爵に、それ以外は子爵に叙せられた(「華族令」)。

明治維新東京奠都にあたり、堂上家も多くが東京に居を移したが京都に残る家もあった。 1947年(昭和22年)6月、昭和天皇が関西地方への行幸(昭和天皇の戦後巡幸)があり、京都在住の堂上家らが、御座所となる大宮御所各室を活花や盆石で飾り立てた。また、同年6月10日には、堂上家24人が仙洞御所の庭園で天皇に拝謁している[3]

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堂上家一覧

要約
視点

文久3年(1863年)版『雲上明覧』によれば、堂上家は以下の通り。

さらに見る 家格, 家名 ...
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脚注

参考文献

関連項目

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