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今野勉

日本の脚本家、演出家、テレビプロデューサー (1936-) ウィキペディアから

今野勉
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今野 勉(こんの つとむ、1936年昭和11年)4月2日 - )は、日本演出家プロデューサー脚本家実業家文化功労者

概要 こんの つとむ 今野 勉, 本名 ...

株式会社東京放送での勤務を経て、株式会社テレビマンユニオン取締役武蔵野美術大学造形学部教授などを歴任した。

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来歴

生い立ち

秋田県河辺郡仁井田村(のちの秋田市)出身[1]。4歳から高校卒業まで北海道夕張市で育つ。今野の小学生時代は終戦直後の混乱期で、教育も大きな変遷の時を迎えていた。特にレコードを使用した国語の授業や、誰かが読んだ詩を皆んなでリフレインしたりする全く新しい形式による教育を自著、今野勉のテレビズム宣言においてこう回想している。『ア、人生っていうのは、相当自由にやって許されるんだなっていうのが突然わかった。』[2]。父は鉱夫であったが、病気がちだったため家は貧しかった。北海道夕張南高等学校在学中は進学せずに鉱山で働くつもりだったが、修学旅行の積立金を受験料にあてることで受験を許され、学費の安かった東北大学に進学[3]1959年(昭和34年)に東北大学文学部を卒業して東京放送に入社[1]

演出家として

テレビ草創期の名ディレクターとして数多くのドラマやドキュメンタリーの制作に携わる。日本人で初めてテレビドラマ(「土曜と月曜の間」)でイタリア賞を受賞[1]1970年(昭和45年)にTBSの仲間25人と共に同社を退社[1]。日本初の独立系テレビ番組制作会社・テレビマンユニオンを創立[1]。また、1998年平成10年)の長野オリンピックの開会式・閉会式のプロデューサーとしても知られている[1]1964年(昭和39年)には国映ピンク映画の『裸虫』を変名で監督した。

現在、テレビマンユニオン取締役を務めつつ、多くの演出作品を輩出している[1]。また、武蔵野美術大学映像学科教授もつとめた[1]。株式会社BSフジ番組審議会委員。東京夕張会会長。

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賞歴

演出

脚本

  • 1989年:「光れ隻眼0.06」(日本テレビ) 放送文化基金賞ドラマ部門本賞
  • 1994年:「続・病院で死ぬということ」(TBS) ATP優秀番組賞 / 放送文化基金賞ドラマ部門優秀番組賞

著書

  • 2017年:『宮沢賢治の真実 修羅を生きた詩人』(新潮社)第15回蓮如賞
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栄典

イベント

舞台

著書

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脚注

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