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仙石秀範
安土桃山時代から江戸時代初期の武将 ウィキペディアから
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仙石 秀範(せんごく ひでのり)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。仙石秀久の次男。官位は従五位下・豊前守。名は久倫とも。
![]() | この記事のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。 (2021年5月) |
生涯
前半生
文禄元年(1592年)1月、豊臣秀吉に拝謁、同年3月25日には御番衆を命ぜられ、翌日の3月26日より肥前名護屋城に在番した[2]。
慶長4年(1599年)8月、五大老の連名で3千石を与えられて従五位下・豊前守に叙任されるが、翌慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与したため、戦後、改易されて浪人となった(『大坂陣山口休庵咄』)[3]。一方で父・秀久とともに上田城攻めに従軍していたともいう[4]。
慶長17年(1612年)、父・秀久の意向に背き、剃髪して宗也斎と号した。家督が譲られないことを察した秀範が禄を得るため駿府に赴き、徳川家康に訴え出たものの認められなかったという[4]。その後、秀久によって勘当されると、豊臣秀頼より扶持を与えられつつも(『土屋知貞私記』)、京新町通り二条より上ルにおいて手習いの師匠を務めていたという(『大坂陣山口休庵咄』)[4]。
大坂の陣
慶長19年(1614年)10月2日、秀範は一族[注 1]の堀田盛重に勧誘されて大坂城に入城し、3万石並に遇された(『諸氏本系帳』)[4]。『土屋知貞私記』によれば、この頃の秀範の年齢を54、5歳としているが、実際は40歳前後であったと思われる[2]。また、秀範は長宗我部盛親・真田信繁・毛利勝永・後藤基次・明石全登とともに新参衆とされた(『北川次郎兵衛筆』)[4]。
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、5月6日に京極高知・忠高隊に向かうが、石川忠総隊に突き崩された(『石川忠総家臣大坂陣覚書』)[1]。その後、大坂城が落城すると、秀範は丹波に逃亡したという(『改選仙石家譜』『細川家記』)[3]。その後の消息は不明。
また、嫡男の長太郎は潜伏先の伯耆で捕らえられ、慶長20年(1615年)閏6月26日、引き廻しの上、六条河原にて乳母の息子とともに処刑、梟首された。しかし、娘の徳子は大坂落城後、叔父の仙石忠政に預けられ、寛永12年(1635年)に死去した[1]。
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注釈
脚注
参考文献
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