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伊多波刀神社
愛知県春日井市上田楽町にある神社 ウィキペディアから
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伊多波刀神社(いたはとじんじゃ)は、愛知県春日井市上田楽町に鎮座する神社。『延喜式神名帳』の尾張国春部郡「伊多波刀神社」に比定されている。



祭神
高皇産霊尊と誉田別尊、息長足姫命、玉依姫命の八幡三神を主祭神とし、大山祇命、市杵島姫命、伊豆能売命、品陀別尊(誉田別尊と同神)を合祀している。
歴史
社伝によれば景行天皇42年の創祀というが、正確な創建年代は不詳。近世まで八幡宮と称していた。最も古い大永3年(1523年)の棟札に「八幡宮本社」とある。江戸前期成立の『寛文村々覚書』には「田楽村...八幡...当村禰宜 助太夫持分」とある。江戸期には春日井郡田楽村の氏神で、味岡庄17か村の総産土神として崇敬されたという。源頼朝が武運長久を祈願して朱印地と甲冑3領を寄進したと伝えるなど、中世以降八幡神として武家の信仰を集めて隆盛し、織田信長による寄進もあって慶長年間には社領5町8反を有したが、検地により全て没収されたという。近世まで神宮寺として常念寺(廃寺)があった。
江戸中期に天野信景によって『延喜式神名帳』の春部郡「伊多波刀神社」に比定され、以降は定説となった。『尾張国内神名帳』には「従三位 板鳩天神」とある。天野が当社を伊多波刀神社に比定した根拠は明確ではないが、俗説として板面にハトを描いて神に奉納する風習があったためこの名がついたと考察している[1]。八幡神の神使が鳩である事から連想された可能性が指摘されている[2]。津田正生らはこれについて疑問を呈しており[1]、志賀剛らは「伊多畑」の転で水が湧く畑を意味するという説を提唱している[3]。なお『明治十五年愛知縣郡町村字名調』によれば、田楽村には「鳩辺」という小字が存在していた。
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祭祀
例祭は古く陰暦8月15日であったが、後に10月5日に変じ、現在は10月第2月曜日。例祭には近世まで流鏑馬が奉納され、『尾張名所図会』にも掲載された春日井郡第一の盛儀であったと伝えられ[4]、奉仕者は常念寺で甲冑を着し、3騎の馬に乗って参拝した後に流鏑馬を奉納していた[5]。明治になってから衰退、廃絶し、現在では甲冑を着けた武者の行進と厄年の男子による馬之塔や前厄の男子による武者の射的が行われるのみであるが[4]、その神事が昭和25年(1950年)4月14日に「伊多波刀神社奉納流鏑馬」として市の無形民俗文化財に指定されている[6]。また、当日は地域の子供たちが獅子舞や神輿を担いで神社に集まる。
境内社
境内に津島社、天照大神社、豊受神社、熊野社、秋葉社、白山社、熱田社、愛宕社、多度社、山王社、大日霊社、菅原社、御霊社、浅間社、建部社、の14神社が鎮座している。上記の中、参道入口に鎮座する天照大神社、豊受神社はかつては境外社であったという[2]。
境内
本殿に向かって右側に笹田傳左衛門らの寄進した燈籠がある[8]。笹田傳左衛門は母の出身地だったここ田楽村の笹田家の養子となり酢を醸造したという。後に名古屋袋町に出て酢屋を開業。さらに、実兄が継いでいた酢屋本家の岡田家を、後に3代目の笹田傳左衛門が吸収し、酢屋勘三郎を襲名した。明治時代に商標の「丸勘」が認められ、宮内省御用達としても登録されている。これが現在のマルカン酢という企業。笹田家本家は上田楽町に健在。
文化財
- 奉納流鏑馬 春日井市指定無形民俗文化財
交通
脚注
参考文献
関連項目
近隣
外部リンク
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