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伊藤壇

日本のサッカー選手 ウィキペディアから

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伊藤 壇(いとう だん、1975年11月3日 - )は、北海道札幌市出身の元サッカー選手、サッカー指導者、クラーク記念国際高等学校サッカー部監督。現役時代のポジションはミッドフィールダー。 

概要 伊藤 壇, 名前 ...

日本、シンガポールオーストラリアベトナム香港タイマレーシアブルネイモルディブマカオインドミャンマーネパールカンボジアフィリピンモンゴルラオスブータンスリランカ東ティモールグアムサイパンの22の国・地域のリーグでプレーした[2][3][4][5][6]

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来歴

要約
視点

登別大谷高等学校3年時に第72回全国高等学校サッカー選手権大会に出場した[1]葛野昌宏は高校の同級生に当たる。仙台大学を経て、1998年ブランメル仙台(現・ベガルタ仙台)に入団。2年間プレーするが戦力外通告を受けた。退団後は故郷に戻り、地元の社会人チームに所属していたが、サッカー雑誌に載っていたシンガポールサッカー事情の記事を読んで海外に渡る。渡航後しばらくは現地の少年サッカーチームのコーチを務めたが、2001年ウッドランド・ウェリントンFCに所属。

2004年、香港・傑志蹴球隊所属時代に香港リーグ選抜に選出され、カールスバーグ・カップに出場した。プレシーズンマッチではACミランと対戦、勝利している。2005年に所属したマレーシアのペナンでは、「Tsunami」のニックネームで親しまれた。2006年にはブルネイオールスターゲームでMVPを獲得している。

2009年にはマカオサッカーリーグファーストディビジョン名門世家加義に移籍。キックオフ直後にゴールを記録し、ギネス記録達成かとマカオ・香港などで大きく取り上げられた(実際の映像がビデオカメラのみであり不認定)。同年途中から2010年にかけてIリーグチャーチル・ブラザーズでプレー。

2011年ミャンマーナショナルリーグ (MNL) のラカプラ・ユナイテッドに移籍。さらに同シーズン中にネパールリーグ(MMC)のマナン・マルシャンディFCに移籍した。

2013年2月よりUFLのグリーン・アーチャーズ・ユナイテッドでプレーし、前期終了の4月まで8試合に出場した。契約延長の打診も受けたが、「親日の国で興味があり、以前から選択肢の中にあった」というモンゴル・リーグエルチムに移籍することとなった[7]

2014年からはラオス・リーグ初の日本人選手として、ラオ・トヨタFCに移籍[8]。その後出番を求めて、同リーグのヨタFCにレンタル移籍[9]。また、同年アジア進出を希望する選手や指導者をサポートする「チャレンジャス・アジア」を設立[10][1]

2015年ブータンティンプーFCと契約、日本人プロ契約選手第1号となった[3]。同年、ドキュメンタリーフィルム「FUTEN」がアムステルダム国際ドキュメンタリー映画祭英語版に出品[10]

2016年よりエイベックス・スポーツとマネジメント業務委託契約を結び、同時にスリランカ・チャンピオンズリーグコロンボFCに登録されたことを発表した[5]。同年11月11日、東ティモールASポンタ・レステ英語版と契約したことを発表し、20の国・地域でプレーすることになった[11]。同年、NHKドキュメンタリー特集「ボールひとつで、どこへでも-アジアの渡り鳥 伊藤壇-」に出演し、著書「自分を開く技術」を出版[10]

2017年5月にASポンタ・レステとの契約を解除された。その後、無所属が続いていた時期に地元の札幌市でサッカースクール「チャレンジャス・キッズ」、「チャレンジャス・ゴールド」、「チャレンジャス・プラチナ」を開校[12][13][14]

2019年2月にグアムサッカーリーグNAPAローヴァーズに入団が決まった[6]。同年4月に北マリアナ諸島サッカーリーグのold B bankにレンタル移籍、翌5月の最終節をもって現役を引退した[15]

2020年4月よりクラーク記念国際高等学校サッカー部の初代監督に就任[16]

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所属クラブ


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個人成績

さらに見る 国内大会個人成績, 年度 ...
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著書

  • 自分を開く技術 本の雑誌社 2016/1/21

脚注

関連項目

外部リンク

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