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出雲郡
日本の島根県(出雲国)にあった郡 ウィキペディアから
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出雲郡(いずもぐん、しゅっとうぐん)は島根県(出雲国)にあった郡。

郡域
古代
要約
視点
7世紀に評制の出雲評として建てられ[1]、701年の大宝律令の制定とともに郡制の出雲郡となったと考えられる。『出雲国風土記』では出雲国と同様の由来の命名とされる。また出雲郷も同様とされる。郡家は出雲郷にあった。
郷里
天平5年(733年)2月30日に成立したとされる『出雲国風土記』には8の郷の内に23の里(神戸郷は除く)があったとされ、以下の郷の記載がある[2]。天平11年(739年)の「出雲国大税賑給歴名帳」(『正倉院文書』に所収)によって里の名前もいくつか判明している。
- 健部郷 - 宇夜里から改名したとされる。波如里と他2里があった。現在の出雲市斐川町学頭、神庭、三絡、松江市宍道町伊志見辺り。
- 漆治郷[3] - 志司治郷[4]から神亀3年(726年)に改名した。深江里、工田里、犬上里があった。現在の出雲市斐川町上直江、直江辺り。
- 河内郷 - 伊美里、大麻里と他1里があった。現在の出雲市斐川町出西、斐川町阿宮、出雲市船津町、上島町、雲南市加茂町大竹辺り。
- 出雲郷 - 3の里があった(里名は不明)。現在の出雲市斐川町出西、神氷、求院、富村辺り。
- 杵築郷 - 評里制の時は支豆支里であったと考えられる[1]。その後寸付郷から神亀3年(726年)に改名した。因佐里と他2里があった。現在の出雲市大社町辺り。
- 伊努郷 - 伊農郷から神亀3年(726年)に改名した。3の里があった(里名は不明)。現在の出雲市東林木町、西林木町、日下町、矢尾町辺り。
- 美談郷 - 三太三郷から神亀3年(726年)に改名した。3の里があった(里名は不明)。現在の出雲市国富町、美談町、出雲市斐川町原鹿と今在家の一部辺り。
- 宇賀郷 - 2の里があった(里名は不明)。現在の出雲市国富町の北側、口宇賀町、奥宇賀町、河下町、猪目町、別所町、唐川町辺り。
- 神戸郷 - 2の里があった(里名は不明)。現在の出雲市斐川町今在家、鳥井、名島辺り。
式内社
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中世以降
中世に入る前には杵築郷、伊努郷と河内郷の領域は神門郡に、宇賀郷と美談郷の領域は楯縫郡に組み込まれたと考えられる。残りの郡域は鎌倉期から戦国期にかけて出東郡(しゅっとうぐん)に変わった。その後近世初期に出雲郡(読みは「しゅっとう」のまま)となった。
近世以降の沿革

- 明治初年時点で、出雲郡(しゅっとうぐん)の全域が出雲松江藩領であった。「旧高旧領取調帳データベース」に記載されている明治初年時点での村は以下の通り[5]。●は村内に寺社領(出雲大社領)が存在。(1町32村)[6]
- 南村[7]、福富村[7]、沖須村[7]、中須村[7]、黒目村[7]、氷室村、中原村、神守村、坂田村、三分市村、今在家村、上直江村[8]、下直江村[8]、直江町[8]、下庄原村[9]、上庄原村[9]、吉成村、武部村、宇屋神庭村、羽根村、学頭村、上鹿塚村、鳥屋村[10]、井上村、上阿宮村、下阿宮村、出西村、求院村、神立村、●富村、●千家村、●北島村、別名村
- 明治4年
- 明治5年(1872年) - 直江町が下直江村に合併。(32村)
- 明治8年(1875年)9月5日[11](24村)
- 氷室村・神守村が合併して神氷村となる。
- 中原村・上鹿塚村が合併して原鹿村となる。
- 吉成村・武部村・羽根村が合併して三纏村となる。
- 鳥屋村・井上村が合併して鳥井村となる。
- 上阿宮村・下阿宮村が合併して阿宮村となる。
- 神立村・千家村が合併して併川村となる。
- 北島村・別名村が合併して名島村となる。
- 明治12年(1879年)1月12日 - 郡区町村編制法の島根県での施行により行政区画としての出雲郡(いずもぐん)が発足。「楯縫出雲郡役所」が楯縫郡平田村上ヶ分に設置され、同郡とともに管轄。
- 明治17年(1884年) - 下直江村の一部が分立して直江町となる。(1町24村)
- 明治22年(1889年)4月1日 - 町村制の施行により、下記の各村が発足。全域が現・出雲市。(6村)
- 明治29年(1896年)4月1日 - 郡制の施行のため、出雲郡・楯縫郡・神門郡の区域をもって簸川郡が発足。同日出雲郡廃止。
脚注
参考文献
関連項目
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