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吉原真龍
1804-1856, 江戸時代の浮世絵師。 ウィキペディアから
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吉原 真龍(よしわら しんりゅう、文化元年8月13日〈1804年9月16日〉 - 安政3年7月7日〈1856年8月7日〉)とは、江戸時代の浮世絵師。
来歴
三畠上龍の門人。本名は信行、通称は與三郎。真龍、玉峰、桃隠、臥雲と号す。豊後国(現在の大分県)国東郡真玉村西畑に四男二女の長男として生まれる。吉岡家の源流は豊前の有力国人・佐田家だとされる。慶長13年(1608年)佐田源兵衛なる人物の次男が、縁のあった西畑村の庄屋・渡辺家に身を寄せ、後に養子入りし庄屋役も継いだという。後に「土谷」と改姓したが、真龍の父・土谷信忠が天保5年(1834年)に延岡藩主から「吉原」姓を賜った[1]。長男ということもあり真龍も一度は家督を継いだようであるが、最終的には四男の信治が継いでいる[2]。
文政7年(1824年)20歳頃に京都に上り、三畠上龍に絵を学ぶ。作画期は天保から弘化にかけての頃で、師の画風を忠実に伝えながら、幕末期の上方浮世絵と四条派風を折衷した美人画を描いている。嘉永2年(1849年)8月には御所参入の許しを得、法橋の位に叙される。嘉永6年(1853年)故郷の豊後国に帰り、三年後同地にて没す。享年53。のち安政5年(1858年)に法眼の位を贈られた。
現在でも西畑村には土谷家や吉原家の墓碑が残っているが、その中でも真龍のものは高さ2mを超える巨石が使われており、一族の中でも特別な存在だったことが窺える。墓石中央に真龍の本名「吉原信行」、左右に四男信治、三男で医師となった信連の名が刻まれている[2]。多くの門人を育てており、その数は百数十名に上ったという。主な門人として野畑如龍、単龍、春龍、景龍がいるが、師を超える者はなかったという。
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作品
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脚注
参考文献
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