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善行旌表
前近代の日本における善行者への顕彰 ウィキペディアから
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善行旌表(ぜんこうせいひょう)は、人の善行をほめて、広く世間に示すこと。しばしば為政者により政策の一環としておこなわれた。
概略
要約
視点
孝順者旌表
702年(大宝2年)、孝順者旌表の詔勅がくだされてから、奈良時代、平安時代によくおこなわれた。 とくに、元号の改元、天皇の即位、皇太子の元服[1][2]、変災の勃発などがあったときに、孝子、順孫、節婦、義僕、力田者(りきでんしゃ)などが賞された[2]。
賦役令
日本においては、757年(天平宝字元年)に施行された養老令の賦役令第17条に孝子、節婦、義夫、順孫を賞する条文が規定され[3]、課される税の租庸調のうち庸と調についは表彰されたものには税が免ぜられた[4]。
『孝義録』の刊行
江戸時代になるとさらにさかんにおこなわれ、1720年(享保5年)、徳川吉宗は篤行者旌表の規定をもうけた。1789年(寛政元年)、松平定信は孝子、奇特者のおおがかりな調査報告を命じ、1798年(寛政10年)には追加報告させて、それらを昌平坂学問所に集めて編集し、1801年(享和元年)に『孝義録』全50巻を官版として刊行した。
所載の表彰者総数8614名、表彰の時期は1602年(慶長7年)から1798年までの約2世紀に及ぶが全体の81%、6985名は宝暦から寛政までの18世紀後半に表彰されたもの。また894名についてはその善行が詳述されている[5]。
御家人の大田直次郎(大田南畝、蜀山人)は勘定奉行の支配下で孝義録編集に従事し、その記録が公文書である「孝義録編集御用簿」として残っており、『孝義録』作成のようすをうかがい知ることができる[6]。『孝義録』は全50巻が官板として刊行されたが、南畝はこれもひとりで書き上げたらしいと中野三敏は推測していたが[7]、『大田南畝全集 第18巻』の「解説」では、屋代弘賢、津村正恭、唐衣橘洲などの手も借りたかも知れないが、証明のしようはないとしている[8]。
刊行後、幕府は『孝義録』の続編の編纂を企画、追加報告を求めたが実際には編集・刊行の運びにはならず、1848年(嘉永元年)林復斎らの手で整理されるにとどまった。これが『続編孝義録料』で、全100巻のうち現存するのは90巻(国立公文書館蔵)[5]。
池上彰彦は、両者とも視点を変えれば貴重な民衆生活史料であるとしている[5]。
諸藩においてもこれにならって旌表があいついでおこなわれ、「芸備孝義録」、「加能越三州良民伝」などをはじめ、この種の善行表彰録の刊行は多かった。
褒章条例の制定
1881年(明治14年)、勅令によって褒章条例がさだめられ[9]、人命救助者、孝子、順孫、義僕、精励実業家、発明改良家、教育、衛生、社会事業、防疫の諸事業、道路、河渠、堤防、橋梁の修築、学校、病院の建設、田野の墾闢などにつくして公衆の利益をはかり、成績のすこぶる顕著なものにたいして褒章をあたえることにした[9]。
各県でもしきりに善行者を表彰し、民間の教化団体もまたおこなった。
1877年(明治10年)、宮内省は『明治孝節録』を、1926年(大正15年)、には徳行者を表彰し、『大正徳行録』を編纂刊行した。
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脚注・参考文献
関連項目
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