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垣内玄蔵

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垣内 玄蔵(かきうち げんぞう)は幕末紀州豪商、僧侶。栖原垣内家本家第10代、紀州藩地士摂津国浄土寺に出家し、栖原三敬院に隠遁した。

概要 凡例垣内 玄蔵, 時代 ...

生涯

寛政6年(1794年)3月9日[4]栖原垣内家新家垣内淡斎(孝友)の長男として生まれ、本家の伯父垣内忠質(茗渓)の養子となった[5]。幼名は熊吉で、後に弥一郎、長じて太郎兵衛と称した[1]。家業を顧みず、医書を収集して医者の閲覧に供し、紀州藩から地士に取り立てられた[1]文政8年(1825年)3月13日弟菊池海荘と藩に呼び出され、度々上納していた冥加金の見返りに苗字帯刀を許された[6]。同年12月にも会計方から献金を命じられて200両を上納し、藩御用達を名乗った[6]。文政12年(1829年)3月8日2人扶持を賜った[7]

ある時、音信不通の遠戚を探しに祖地河内国垣内村を訪れたが、寺や古老に尋ねても跡形なく、松の下で箏曲「流水中国語版」を演奏して帰宅し、出家を発意したという[8]真言宗に帰依し、屋敷の東に転居し、在家のまま受戒して三敬庵と号し、観音像・諸天像を安置して念仏に励んだ[4]。39歳の時、忠質の許可の下、末弟垣内惟聡に家督を譲り[1]摂津国住吉郡大陵寺村[9]浄土寺に入って伽藍を修復し、仁和寺法親王法印の号と紫金袈裟を賜った[4]

数年後惟聡が病気に罹り、親族に呼び戻されて還俗したが、幕政改革による物価の急落、房総漁業の不漁により家業が傾いたため、江戸本店に急行して5箇所の土地を売却し、負債を清算し、番頭松田弥吉を小谷定吉に交代させた[1]。この時家宝も売却しようとしたが、定吉に諌められた[1]

店を定吉に任せて帰郷すると、栖原北山滝谷に小屋を建てて三敬院(三敬庵[3])と号し、泉から水を引いて池を造成し、紅蓮白蓮を植え、毎日念仏に励んだ[1]高野山宗徒の推薦で権大僧正に叙され、剃髪して紫衣を着用した[1]安政初年、弟垣内保定の農兵事業に対し、薙刀300本、鉄砲50筒を提供した[1]

惟聡に子がなかったため、親族・番頭との協議により海荘第2孫菊池晩香(武貞)を跡継ぎとした[1]慶応3年(1867年)11月病気に罹ると、武貞に伝家の系図・古記録・宝刀を託し、12月2日夜端座合掌しながら入寂し[1]施無畏寺に葬られ、慶応4年(1868年)8月石田冷雲撰の墓碑が建てられた[4]

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人物

和歌・薙刀・箏・料理を好んだ[10]。2人の弟と対照的に質素な生活を送り、裏庭に芋を植え、池に家鴨を飼い、その親芋と卵を料理したものを好物とした[10]

江戸深川佐賀町に小屋を購入し、2つしかない部屋に仏像と尿瓶のみを置いていた。ある晩、客を招いて曲を演奏しようとしたが、部屋に入り切らなかったため、軒下で曲を披露した。通りがかりの酔っぱらいに絡まれたが、音調を乱さず演奏し続けたところ、遂に酔っぱらいは居住まいを正し、夜遅くまで聴き入ったという[10]

家族

天文21年(1552年)垣内武行が興した栖原垣内家の一族[11]。第3代垣内兼次常陸房総での遠洋漁業に進出し[11]、第9代垣内茗渓が江戸本店を深川西永代町に移設した[12]

  • 父:垣内淡斎(孝友) - 本家第9代垣内忠質(茗渓)弟[12]
  • 母:孝 – 有田郡滝川原村旧家、宮原次兵衛娘[13]安永4年(1775年)生。剃髪して孝寿と号した。安政2年(1855年)11月6日死去し、施無畏寺に葬られた[14]
  • 弟:菊池海荘(保定)
  • 姉妹:鶴 - 垣内白沙(八郎兵衛、貞)妻[11]
  • 弟・養子:垣内惟聡(烱遠) - 本家11代[2]
  • 養父:垣内忠質(茗渓)
  • 養母:妙了 - 湯浅村谷輪与右衛門娘[15]
  • 妻:徳(妙奏) - 本家第7代垣内了順外孫、妻木通浄娘[15]。安政4年(1857年)6月29日62歳で病没[16]
  • 嫡孫:貞楠 - 姪孫左衛門某次男[4]

脚注

参考文献

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