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多治貞岑

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多治 貞岑(たじひ の さだみね)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。名は貞峯とも記す。氏姓は多治比真人のち丹墀真人、多治真人。中納言多治比広成の曽孫[1]木工頭丹墀貞成の子[2]官位従四位下右中弁

概要 凡例多治貞岑, 時代 ...

経歴

右京の出身。若い頃から大学寮にて学ぶが、文才があり、奉試に及第して文章生となる[3]天長9年(832年)多治比貞成の奏請により、一族と共に多治比から丹墀に改姓する[4]。翌天長10年(833年兵部少丞に任ぜられ、兵部大丞を経て、承和5年(838年従五位下加賀介に叙任される。

のち播磨介仁明朝前半は地方官を務めるが、承和9年(842年刑部少輔、承和14年(847年民部少輔に任ぜられるなど、仁明朝後半は一転して京官を務めた。

嘉祥3年(850年文徳天皇の即位後に駿河守として再び地方官に転じるが、国政は清く明らかで官吏や民の評判が良かったという[3]。国司の任期を終えた後、斉衡3年(856年大学頭天安元年(857年)民部少輔と文徳朝でも後半は京官を歴任した。

天安2年(858年)従五位上・左少弁に叙任されると、清和朝の前半は弁官を務め、貞観5年(863年)右中弁、貞観8年(866年正五位下、貞観10年(868年)従四位下と累進した。同年伊勢守に転じるが遙任であったという[3]。この間の貞観8年(866年)姓の名が一族の祖先である多治比古王に由来するにもかかわらず、以前丹墀姓に改姓したことから、元の多治比に戻した上で、煩雑さを避けるために「比」の時を省略して多治姓への改姓を上表し許されている[4]

晩年は閑居し、酒浸りで酩酊の日々を送り、家事を顧みることなく、常に友人を招いては酒を酌み交わしていたという[3]。貞観16年(874年)11月9日卒去。享年76。最終官位は散位従四位下。

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官歴

六国史』による。

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脚注

参考文献

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