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大威徳寺跡
飛騨国と美濃国との国境にあった真言宗の寺院の跡 ウィキペディアから
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大威徳寺跡(だいいとくじあと)は、飛騨国益田郡竹原郷御厩野(現在の岐阜県下呂市御厩野)と、美濃国恵那郡加子母(現在の岐阜県中津川市加子母)との国境に存在した真言宗の寺院の跡。岐阜県史跡指定第67号。
歴史
要約
視点
京の高雄山神護寺の復興に努めていた文覚は、後白河法皇に神護寺再興を強訴したため、法皇が激怒し伊豆に流刑となった。
当時、源頼朝も伊豆の蛭ヶ小島に流刑となっていたので2人の親交が始まり、文覚は源頼朝に平家討伐の挙兵を迫った。
安元2年(1176年)、文覚は諸国を巡錫中に小郷の地に至り、大杉地蔵堂に一泊した。真夜中に地蔵尊の蓮台の上から声があり目覚めると、
地蔵堂の東方の池[1]から一脈の光が出て西方の地に跨線を描いた。
文覚は地蔵菩薩の御告げと悟り、光が示した西の山に寺を建立しようと決心した。
後に源頼朝が鎌倉幕府を創設すると、頼朝の助を得て、日頃信仰していた大威徳明王を祀るにふさわしい壮大な鳳慈尾山 大威徳寺を創建するに至った。
鳳慈尾山 大威徳寺は、源頼朝が征夷大将軍となり、鎌倉幕府を開いた時に、木曾義仲とその一族郎党の供養のために、寺院建立の命を受けた文覚[2]が、飛騨国と美濃国との国境で木曾にも近い此の地に来て、大威徳明王を本尊とし、五重塔には大日如来を安置して建立したとも伝わる。
木曾源氏の残党に対する慰撫政策や、飛騨に潜伏していた平家の残党に対する動静監視、鎌倉幕府方の隠し城的な寺院であったとする説もある。
創建当時の大威徳寺は壮大で格式も高く、諸国の武士が駕籠や馬で参詣する折も堂前へ乗り入れが許されなかったため、麓の野に厩(馬屋)を設けて留めたと言われ御厩野の地名もこれに由来するものと伝わる。
建てられた当時の規模は壮大なもので、約10haの土地に仁王堂礎石、本堂礎石、鐘楼堂跡、五重塔跡等が残り、丈5間4方(14.4m)の本堂の他、7堂12坊を有する天台宗の大寺院であり、14世紀から15世紀の室町時代において最盛期を迎えた。
拝殿山(標高1402m)から南西に延びる丘陵の先端(標高742m)に位置し周囲には、伝・西坊、伝・多聞坊という地名がある。
かつて岐阜県加茂郡東白川村神土の邦好家が所蔵していてた、大威徳寺の大般若経600巻の大威徳寺舊藏大般若経奥書の写しには、次の様に平姓を名乗る施主の名が記されており、当時の複雑な人脈関係を物語っている。
寺地の跡の配置や地形を考察すると、本堂は南面して建てられ、山門(礎石のみを残す)まで140m、東後方は鎮守尾と称する狭い尾根に通じるほか、背北一帯は沼沢地で人馬の通行はできない。西観音平の台地を西北の控えとして、その間に般若谷の支流を挟み、東・南・西の三方は峻険な絶壁で隔てられ、さらに数段の土塁を配して大威徳寺を囲んでおり、寺院よりも、むしろ山城的な構えを多分に備えている。
永禄12年(1569年)美濃国苗木城主の遠山直廉は、武田信玄から、武田氏から離反した三木自綱の弟で、三木次郎右衛門尉を攻めるように命じられ、飛騨国益田郡竹原郷に侵攻した際の兵火で多くの堂塔が焼失した(大威徳寺の戦い)。
さらに天正13年(1585年)に発生した天正地震により壮大な大寺院は、ほぼ壊滅し、その後も細々と存続したようだが17世紀後半には廃寺となった。
12坊の1つであった「多聞坊」(現在の中津川市加子母の小郷に存在した)僧の慶俊は、郡上市の長瀧寺の「塔坊阿名院」へ移り住み、
天正15年(1587年)6月下旬に、大威徳寺の大要を、院所蔵の経巻の奥書の中に書き残しており[6]、当時を偲ぶ唯一の資料となっている。現在はその写しが高山市の宗猷寺に現存している。
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仏像の行方
①慶長年間、西坊の跡地に、禅昌寺5世の功叔宗輔が阿弥陀寺を建立した。その本尊は大威徳寺ゆかりのものであると伝わる。
②現在、中津川市加子母の小郷にある大杉地蔵尊は行基の作で、元は大威徳寺の塔頭の一つに奉祀されていたと伝えられている。
③高山市の明林山神通寺に飛騨でもっとも優れた作品の一つと云われる「聖徳太子像」が祀られていて、「伝大威徳寺蔵」となっている。
『尊像縁起』によると、
當山安置の聖徳太子像はその初め山城國梶尾寺にましましし後、当國飛騨益田郡竹原村鳳慈尾山大威徳寺に奉安し奉りたる善縁深き尊像なり。抑も此の大威徳寺は鎌倉将軍源頼朝公の建立にして文覺上人を招請して開山となし、堂塔伽藍輪燈の美を競い峰を越え谷を渡りて東坊、多門院、南坊、竹林坊、西坊、吉祥院、北坊、寶光坊、池坊、満月坊及び福成寺等の塔頭十二坊在り数十の住侶日夜諷誦梵唄の声絶えずして足利幕府の中期に及びたるも其の後州内兵乱久しく漸次荒廃に及べり。 此の難を免れむ為にこの尊像を秘に奉遷して付近の天領地たる佐美國大藏寺に安置し奉る。而るにこの大蔵寺も烈しき時潮に抗し難く日々衰微の道を辿るに至れり。時恰も飛騨の商賈一人あって、偶々此の地を徘徊し大藏寺を尋ねたるあり、時に荒廃せし堂内に此の尊き太子ののお姿を拝し奉りて敬心忽ち深くして且つは此の奇縁を喜び生國の庶民に一度拝礼せしめんとの志あり。即ち大藏寺の住侶たる老尼に其の意を告ぐるに又賛ずる所あり。商賈直ちに此の尊像を奉じて飛騨に帰国して後再び大藏寺を尋ねて謝意を告げんとせしに即ち祝融[9]の大藏寺を襲いて堂宇悉く灰燼に帰せしと謂う。
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末寺
末寺として美濃国では加茂郡神土村に常楽寺、大沢村に蟠龍寺、吉田村に大藏寺が建立されたとされる。これらの寺は、江戸時代になって苗木藩主となった遠山友政によって臨済宗妙心寺派に改宗され雲林寺の末寺とされた。また恵那郡加子母村には極楽寺があったが、天正地震後は草庵を残すのみとなり衰微して消滅したと伝わる。
現状
アクセス
関連項目
- 中部地方の史跡一覧
- 大威徳寺の戦い
- 阿弥陀寺 (下呂市)
- 寶心寺(中津川市)
- 大杉地蔵尊
指定文化財・天然記念物
中津川市指定文化財
(有形文化財) 多聞坊跡 指定年月日:昭和58年 (1983年4月22日)
参考文献
- 『岐阜県益田郡誌』第二十九章 名所舊蹟 鳳慈尾山 大威徳寺跡 p512~p513 岐阜県益田郡編 大正5年
- 『飛騨百景』 大威徳寺址 源頼朝悲願の寺 p61~p63 小鳥幸男, 義基憲人 高山市民時報社 1984年
- 『岐阜県指定史跡鳳慈尾山大威徳寺跡 : 範囲確認調査概要報告書 平成15年度』 下呂町教育委員会 下呂町教育委員会, 2004年
- 『岐阜県指定史跡鳳慈尾山大威徳寺跡 : 範囲確認調査概要報告書 平成16年度』 下呂町教育委員会 下呂町教育委員会, 2005年
- 『岐阜県指定史跡鳳慈尾山大威徳寺跡 : 範囲確認調査報告書 平成15-18年度 (下呂市文化財調査報告書 ; 第1集)』 下呂市教育委員会, 2007年
- 『山寺サミットin下呂温泉~大威徳寺の謎を追う~報告集』 下呂市教育委員会 下呂市教育委員会 2008年
- 『文覚上人と大威徳寺 : 鎌倉幕府創建への道 : 「濃・飛」秘史』 相原精次 彩流社 2008年
- 『加子母村誌』 第二章 江戸時代までの歴史 第ニ節 古代・中世 ニ 中世 威徳寺 p64~p66 加子母村誌編纂委員会 昭和47年
- 『加子母村誌』 第四章 生活と民俗 第十一節 口頭伝承 一 伝説と民話 大杉地蔵尊・文覚上人の墓 p666~p669 加子母村誌編纂委員会 昭和47年
- 『新修東白川村誌 通史編』 第一章 原始・古代・中世 第三節 中世 威徳寺考 p113~p116 東白川村誌編纂委員会 東白川村 1982年
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外部リンク
脚注
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