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大木喬任

日本の武士、政治家 ウィキペディアから

大木喬任
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大木 喬任(おおき たかとう、天保3年3月23日1832年4月23日〉- 明治32年〈1899年9月26日)は、明治期の日本官僚政治家[1]通称幡六[要説明]民平[要説明]

概要 生年月日, 出生地 ...

栄典正二位勲一等伯爵

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経歴

出自

肥前国佐賀藩の45石の藩士大木知喬の長男として赤松町(現在の佐賀市水ヶ江三丁目)に生まれる。天保13年(1842年)父、知喬が亡くなり、以降、母シカ子の手で育てられる。出身家の詳細については大木家を参照。

幕末

藩校の弘道館で学び、1850年嘉永3年)副島種臣らと共に枝吉神陽義祭同盟結成に参加。後に江藤新平大隈重信らも加わり藩論を尊皇攘夷へと導くことを図るが果たせなかった。万延元年(1860年)藩校弘道館から選ばれて江戸遊学の途に上る。

明治新政府

1868年(明治元年)に新政府が樹立されると、大隈・副島・江藤らとともに出仕し、徴士、参与、軍務官判事、東京府知事などを務めた。江戸東京とすること(東京奠都)に尽力した。1871年(明治4年)に民部卿文部卿として学制を制定。1872年(明治5年)に教部卿を兼任。1873年(明治6年)、参議司法卿1876年(明治9年)の神風連の乱萩の乱の事後処理に当たった。

戸籍編成の主導権を巡り大蔵省の大隈と対立。大久保利通の側近となり、民部大輔として戸籍法制定を行い、のち民部卿に任命されるが、大隈の巻き返しで民部省は大蔵省に統合された。民法編纂総裁として法典編纂に関わる。のち元老院議長、参議などの要職を歴任した。

1884年(明治17年)、華族令施行によって伯爵に叙せられた。12月14日学習院講堂で開かれた大日本教育会の常集会で森有礼とともに演説を行った[2]1888年(明治21年)に枢密顧問官1892年(明治25年)に枢密院議長再任。 しかし同年11月、修身教科書秘密漏洩事件が発生。引責辞任を余儀なくされ、以後、麝香間祗候にとどまった[3]

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大木喬任の墓(青山霊園

1899年(明治32年)に死去、享年67。

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評価

教育制度や法典編纂の確立にも尽力したことから、明治の六大教育家の1人に数えられている。

  • 江藤新平 「大木はあたかも熟練したる仕立て屋の如し。その裁縫の技、堅緻ならざるに非ず。ただ、恨むらくは、その手に成る綿入れの仕立て終わる時は、春既に去りて夏方に近づく也。もし余をして大木と共に、干戈を交へしめば、余は彼の考慮を費せる間に於いて、その首級を奪うを得べし」[4]

系譜

大木氏筑後国蒲池氏の一族で、筑後宇都宮氏宇都宮懐久の次男の資綱の嫡子大木政長を祖とし、資綱の兄の蒲池久憲の後裔の蒲池鎮漣の重臣で、のちに鍋島直茂に仕えた大木統光の子孫にあたる。

  • 妻:朋子[5]
  • 長男:大木逸太郎(1866年 - 1889年)[6]
  • 次男:大木遠吉…原・高橋内閣の司法大臣、加藤内閣の鉄道大臣を歴任。
  • 娘:栃木の農家に嫁ぐ[7]
  • 娘:岡崎えん…喬任と芸妓の子。銀座の小料理屋の女将となり[8]、没後、吉屋信子により『岡崎えん女の一生』が執筆された)

資産

沼津磯部温泉に別荘を所有した。

栄典・授章・授賞

位階
勲章等

脚注

関連文献

関連項目

外部リンク

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