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大橋棣
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大橋 棣(おおはし やすし、1910年7月17日 - 2004年[1]9月9日)は大阪府出身のプロ野球選手、野球指導者(高校野球・社会人野球監督)。
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来歴・人物
旧制浪速中学校(現浪速高校)卒業後、関西大学に進学。強肩・好守の遊撃手として有名だった。その後、門司鉄道局に就職。門司鉄道局時代は、玉井栄など九州の選手の大阪タイガース・阪神軍入団に関わり、球団を側面からサポートした。
松木謙治郎が退団するときに阪神軍に助監督として入団するつもりだったが、阪神本社側の反対で選手として1942年10月登録された。翌1943年オフに退団。誰にでも食ってかかる事から「ケンカ大橋」の異名を持ち、ベンチではヤジ将軍として有名だった[2]。
1954年4月より、大学時代のチームメートだった岡本利之がいたため鳥取県に移り、米子工業高校のコーチをしていた。その後同年7月、米子東高校野球部後援会の人物の強い推薦を受け、学校側主導で同校監督に就任。この年は、義原武敏を擁して、第36回全国高等学校野球選手権大会で1勝しベスト16を記録。翌1955年7月の夏の鳥取大会敗退後辞任した。なお、同校野球部史上、OB以外が監督を務めた唯一のケースである。学校主導での就任だったため、OB会の反応は任期中冷ややかであったという。岡本自身も、「どこかの県に送り届けたい気持ちだ」と述べている。
その後、社会人野球・日鉄嘉穂で監督を務めた。2004年9月9日に死去[3]。享年94。
日本プロ野球記録大百科などでは米子中出身となっているが、浪速中出身の誤りである。
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詳細情報
年度別打撃成績
年度別投手成績
背番号
- 21 (1942年 - 1943年)
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脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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