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大澤善助

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大澤善助
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大澤 善助大沢-、おおさわ ぜんすけ、1854年3月7日嘉永7年2月9日) - 1934年昭和9年)10月10日)は、日本の実業家である[1]大沢商会京都電気鉄道の創立者として知られる[2]。幼名は松之助(まつのすけ)、養父を継ぎ清八(せいはち)とも名乗った[2]

概要 大澤 善助Zensuke Osawa, 生誕 ...
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大沢善助 1920年代
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大沢善助夫妻と長男徳太郎一家。後列右より徳太郎夫妻、徳太郎長男、前列右より徳太郎次女、同三女、善助妻、徳太郎四女、善助、徳太郎次男、同長女

人物・来歴

1854年3月7日嘉永7年2月9日)、京都富小路通丸太町下ルに松尾音松の二男松之助として生まれる[1][2][3]。任侠・会津小鉄こと上坂仙吉の親分である同じく任侠の大澤清八(大垣屋清八)の養子となり、大澤松之助となる[1]。のちに養父を継ぎ、大澤清八と名乗り、組の若大将として活躍した。

1877年明治10年)、23歳のころ、同志社英学校初代校長の新島襄から洗礼を受け、クリスチャンとなる。父・清八、長男・徳太郎も受洗、人入れ稼業の組は上坂仙吉に譲った。同志社女学校の日米首脳陣による主導権争いが激化し、資金を出していたアメリカン・ボードが閉校を通告してきたため、存続のため1886年から資金援助を始める[4]

1890年(明治23年)、時計および自転車の輸入・製造販売を開始、大沢商会を創立した[1]1892年(明治25年)、京都電燈株式会社の代表取締役社長に就任する[1]1894年(明治27年)2月1日京都電気鉄道を設立して取締役に就任(社長は高木文平)、翌年1895年(明治28年)、日本初の市街電車を開業した[2]1898年(明治31年)5月6日に開業した名古屋電気鉄道にも協力した。

京都府会議員となり、1899年(明治32年)、同府会議長となった。

1900年(明治33年)11月18日大韓帝国釜山(現在の大韓民国釜山広域市)にわたり、善助が設立した釜山電燈会社に電気事業許可が下り、京都電燈と同地の居留民が共同出資して釜山電燈株式会社を設立、1902年(明治35年)4月1日には開業した。1910年(明治43年)5月、韓国瓦斯電気株式会社に同社を売却した。

1918年大正7年)7月1日、京都電気鉄道を京都市に売却した。

1925年(大正14年)9月10日、善助の寄付で建てた、同志社女子部寄宿舎「大沢寮」が竣工した[5]

1934年昭和9年)10月10日、死去した[2]。満80歳没。

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親族

長男に大沢商会二代目社長・大澤徳太郎[6]。その妻幸恵は鈴木清 (実業家)の長女。

徳太郎長男は、J.O.スタヂオを興し、日本映画のトーキー化を推進した大澤善夫。その妻田鶴子は八馬財閥初代八馬兼介の孫[7]。 次男の清治(1908-1947)は大沢商会専務となり、家族の反対を押し切って女優の清川虹子と結婚したが39歳で病死[8]

長女えい(1896年生)は、同志社女学校卒業後、前田忠(横浜正金銀行ブエノスアイレス支店など各地の支配人を経て、三和信託監査役[9])に嫁ぎ、二女富貴(1899年生)は同志社女学校卒業後、実業家武間享一の妻となり、同志社同窓会名誉会長・同志社幼稚園名誉園長を務め、三女満寿子(1906年生)は津下統一郎(カルピス製造会長・津下紋太郎の長男で、三井物産社員を経て富岡光学会長などを務めた[10][11])に、四女芳子(1911年生)は神戸湊西銀行(神戸銀行に吸収)創業家一族の末正武夫に嫁いだ。

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ビブリオグラフィ

復刻『回顧七十五年:記・大沢善助』、大空社2000年9月 ISBN 4756808980

関連項目

外部リンク

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